2024.05.20
【生誕150周年】菱田春草と黒き猫
菱田春草は、明治期に活躍した日本画家です。わずか37年という短い生涯のうちに遺した彼の作品は後の芸術家たちに多大な影響をもたらしただけでなく、現在でも多くの人々を魅了しています。
そんな名作揃いの春草作品の中でも特に傑出しているのが“黒き猫”です。デザインとしても多くのグッズやメディアで引用されているため、菱田春草の名前を知らなくても『黒き猫』だけはわかるという方が多いのではないでしょうか。
今回は、2024年に生誕150周年という節目を迎えた菱田春草と、彼の傑作『黒き猫』についてご紹介したいと思います。
菱田春草とは
菱田春草は、1874(明治9)年9月に1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として誕生。本名は三男治(みおじ)といいました。
1890(明治23)年に三期生として東京美術学校に入学し、教師を務めていた橋本雅邦(日本画家。狩野派の末裔)に付いて学びます。在学時より校長の岡倉天心に目をかけられた春草は一学年上の横山大観や下村観山らと行動を共にし、卒業後は同校で揃って教師を務めました。
しかし1898年、岡倉天心が日本美術学校の校長職を辞職させられると、春草をはじめとする側近の教師たちも揃って辞職します(いわゆる美術学校騒動)。その後は天心が設立した日本美術院に参加。1903、4年にかけてインドやヨーロッパを外遊して海外の芸術を学ぶと、1905年にはそれまでの色彩研究の内容を横山大観と連盟で論文に発表しました。以降、積極的に新たな日本画の表現を切り拓くべく創作に励みましたが、次第に慢性腎臓炎を原因とする網膜炎を発症して目を患います。目は一時的に回復したものの、1911年に腎臓炎が再発し、そのまま帰らぬ人となりました。
“朦朧体”への批判
菱田春草と言えば、横山大観らと共に取り組んだ朦朧体が有名です。しかしこの呼び方自体は2人が命名したわけではなく、「墨の線以外で輪郭を描いても日本画たりえるのか」という新しい日本画の実験的な試みの一つでした。
しかしこの試みは思うように受け入れられず、ひどい批判に晒されます。東京日日新聞の明治三三年(1900)四月一〇日版では、美術史家で美術評論家の大村西崖が日本美術院の画家たちを批判する上で「朦朧たる彩色やぼかしで〜」と述べており、このような言い回しが朦朧体という名前で定着したのでしょう。余談ですが当時、“朦朧車夫”と呼ばれる辻待ち、いわゆる無許可の人力車が出回り、たびたびトラブルになっていました。そこから転じて、「正直に見せかけて不正を行う連中」を『朦朧組』と呼ぶなど、朦朧はお世辞にも良い響きの言葉でなかったことは間違いないでしょう。
ただし朦朧体という言葉自体は決して大村西崖が発明したものではありません。明治30年ごろには文壇で使用されており、ここではロマン主義を中心とした島崎藤村と彼を支持する詩人を指すものとなっていました。おそらくこの時の言葉の印象が日本画の批評家たちの中に残っていたものと考えられます。
また大村西崖は東京美術学校の助教授で、一時退職していたのが1898年に岡倉天心や菱田春草らと入れ替わりで再雇用されており、立場上対立する関係にあったと言えるでしょう。
ただ結果的に朦朧体という呼び名は、春草ら岡倉天心に引き立てられた日本画家たちの評価の高まりと共に蔑称から彼らのアイデンティティへと逆転していくこととなりました。これは西洋における“印象派”の意味合いの変遷ともよく似ているのは、とても興味深いところです。
春草の画風
上記のように菱田春草の画業において朦朧体が多くを占めるのは間違いありませんが、しかし春草という画家の最高到達点が朦朧体を極めたところにあるかと言えば、決してそんなこともないのです。
晩年の傑作の一つ『落葉』は、朦朧体で試行錯誤した時期の作品――例えば『菊慈童』などと比べると線が明確になり、朦朧体らしい表現を前面に押し出した画風ではなくなっています。これは朦朧体を使用する上で念頭においていた色彩表現の深化がひと段落した結果であり、実際1905年に発表した論文にて朦朧体の意義や成果を発表すると共に、さらなる色彩研究を展開することに言及されていました。
代わって本作で目を引くのは、空気遠近法の活用による空間の広がりです。遠近を色彩と濃淡で表現するこの技法を、春草は完璧に使いこなしています。一方で遠近表現の基本とも言える透視図法は完全に作中から除去されており、それどころか地面や空など遠近を連想させるようなものまで描かれていません。春草は、あくまで伝統的な屏風絵を構成する材料だけでどこまで空間を表現できるかに挑んだのです。
『落葉』は、第3回文展に出品されると、最高賞に当たる2等第1席に輝き、大絶賛を受けます。春草の挑戦は成功に終わり、朦朧体から空気遠近法へと表現が大きく広がっていったわけです。
色彩研究の末に空気遠近法を日本画に展開した春草は、さらなる表現へと挑んでいきます。冒頭にて紹介した『黒き猫』は、その翌年に描かれた作品でした。
黒き猫
春草は『黒き猫』と題した作品を2作描いており、ここで紹介するものは永青文庫(東京都・文京区)所蔵版になります。
描かれているのは、木の枝に座る一匹の黒猫と、黄葉した柏の枝葉のみ。極めてシンプルな画面構成です。『落葉』で展開された空気遠近法すらも影を潜めており、その代わりに柏の葉脈や樹幹の小さな隆起まで仔細に描くなどモチーフを写実的に捉えるべく注力しています。中でも猫の描写は圧倒的で、とくに毛並みは体の部分によって柔らかさを描き分けるほどの繊細さです。
春草がこのような写実的表現を取り入れた背景として、朦朧体に欠けていた対象物への意識の高まりがあったと考えられます。同時期に欧米で評価されていた琳派の作品が逆輸入されるようになっていたため、新たな日本画の模索として琳派らしい装飾的表現を取り入れることで、対象物の存在感を高めようとしたようです。
こうした背景で描かれた本作は、確かに自然と黒猫の姿に注目が集まるよう巧みに演出されています。大きく広がる柏の木の黒い輪郭線や装飾的な表現に対して、黒猫は小さく、そして朦朧体で輪郭を表現し、極めて写実的です。
さらに背景が空白のままになっているおかげで、両者の対比はより明確なものとなっています。また背景の空白は『落葉』から引き継がれた表現であり、遠近感による空間描写自体が存在感強調のためには不要と考えられたのではないでしょうか。
このようにこれまで春草が研究した表現技法を結集させた『黒き猫』ですが、制作の経緯は極めて偶発的なものでした。元々は『雨中美人』の図を六曲一双の屏風仕立てで制作するつもりが、モデルを務めるはずの妻が病気で倒れたり、また着物の色調がまとめられずに断念。急遽近所の焼き芋屋から黒猫を借り、わずか5日で仕上げたのが本作でした。
なんとも慌ただしいエピソードですが、短期間に急足で制作したことで結果的に自身の引き出しを余計な思惑を挟むことなくまとめ上げることができたのかもしれません。
『黒き猫』は第4回文展に出品され、後に菱田春草の傑作として重要文化財に指定されることとなります。しかしここが春草の最高到達点だったかと言われれば大いに疑問です。
師の岡倉天心は、追悼文の中で春草を「不熟の天才」と呼び、盟友の横山大観は、自身が日本画の巨匠と呼ばれるたび、「春草君が生きていたら俺なんかよりずっと巧い」と口にしていたといいます。
『黒き猫』はどこで見られる?
生誕150年にあたる2024年、再び菱田春草に注目が集まっています。
『黒き猫』もぜひ本物を見たいと思われる方が大勢いらっしゃるでしょう。
しかし残念ながら、今年は見ることができません。
というのも、本作は目下修理中なのです。
何しろ100年以上前の作品です。絵具が剥落したり、裏打ちに浮き上がった部分が出てきたりと、老朽化が深刻な状態になっているのです。
そのため永青文庫では大規模な所蔵作品の一斉修理を実施しており、費用補填のためのクラウドファンディングも実施されました。
詳しくは以下を参照
https://readyfor.jp/projects/eiseibunko_02
ネット公開などのおかげで美術品が手軽に鑑賞できるようになっていますが、月日の経過と共に本物を見るハードル自体はますます高くなってきていることを実感します。
ぜひこの機会に永青文庫をはじめとする保護プロジェクトにも関心を持っていただければ幸いです。
菱田春草の作品を見られる展覧会・美術館
・『生誕150周年記念 菱田春草と画壇の挑戦者たち―大観、観山、その後の日本画へ』
https://kyoto.wjr-isetan.co.jp/museum/exhibition_2405.html
会場: 美術館「えき」KYOTO
期間: 2024年5月25日(土)〜7月7日(日)
・『北陸新幹線福井・敦賀開業企画「生誕150年記念 菱田春草展 不朽の名作《落葉》誕生秘話」』
https://fukui-kenbi.pref.fukui.lg.jp/exhibition/exhibition/archives/26
会場: 福井県立美術館
会期: 令和6(2024)年9月15日(日)~11月4日(月)
[前 期] 9月15日(日)~10月14日(月・祝)
[後 期] 10月17日(木)~11月4日(月)
[休館日] 10月15日(火)~16日(水)展示替
・飯田市美術博物館
https://www.iida-museum.org/16466/
年間を通して多くの菱田春草の絵画を展示しています。
展示中の作品については博物館のサイトをご覧ください。