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2022.06.22

「風神雷神図」を描いた7人の画家

「風神雷神図」を描いた7人の画家

「風神雷神図」は日本美術の中でももっともポピュラーなモチーフの一つであり、これまで数多くの画家が作品制作に取り組んできました。今回はその「風神雷神図」の歴史を取り上げるとともに、作品を世に出した代表的な画家7人をご紹介して参ります。

「北野天神縁起絵巻」(承久本)より「雷神」 所蔵:北野天満宮

 

「風神雷神図」とは

「風神雷神図」の起源は古来中国にあるとされますが、実は詳しいことはわかっておらず、その呼び名も「風神」が「風伯」「風師」、「雷神」も「雷公」「雷師」など定まってはいません。しかし中国で1世紀に作られた武氏祠には風伯と雷公が彫られているほか、北魏の元叉の墓の天井画には、星図を挟んで周囲に太鼓を巡らせた雷公と布を広げた風伯が対になって描かれています。

しかし日本ではこれらの図像イメージが定着するより先に、仏教における観音菩薩の眷属として解釈されていたようで、同じく中国伝来の仏教美術である「千手観音二十八部衆像」の二十八部衆の一体として定着します。ただし風神と雷神の個性は他の二十八部衆よりも際立つこと、とくに自然現象を象徴するという親しみやすさから、次第に2神の存在だけがクローズアップされていくこととなりました。また風神と雷神は民間信仰の対象として庶民の覚えもよく、とくに菅原道真=雷神を崇める天神信仰は大きな人気を博し、仏教というカテゴリを超えた神様として日本文化に浸透していったのです。

次に、この「風神雷神図」を描いた代表的な画家たちをご紹介しましょう。 

「千手観音二十八部衆像」所蔵:細見美術館

 

俵屋宗達(生没年不詳) 「風神雷神図屏風」(所蔵:建仁寺)

「風神雷神図屏風」俵屋宗達 所蔵:建仁寺、京都国立博物館

「風神雷神図」と言えば俵屋宗達、と言っても過言ではないでしょう。

宗達=風神雷神と覚えている方も多く、まさに彼の代表作であり、また「風神雷神図」を日本人の記憶に刻み込んだ立役者と言えるのではないでしょうか。

そんな“日本画の巨匠”俵屋宗達ですが、未だ多くの謎に包まれています。

1570年ごろの生まれとされ、京都で1600年前後から俵屋という絵師工房を率いて活動していたと言われますが、これもあくまで一説に過ぎません。ただし後水尾天皇など各界の有力者から注文を受けるなど絵師としての実績は当時から非常に高かったようです。中でも本阿弥光悦に贔屓とされ、彼の率いる琳派の重要な絵師として認められていました。

「風神雷神図屏風」もまた出自が不明な作品です。今や京都・建仁寺の国宝として名が知られていますが、その建仁寺に所蔵された経緯もはっきりしません。一説には、京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり)が京都の妙光寺に寄進するために描かせたとされ、その後妙光寺の住職が建仁寺に転任した際に持ち出したと言われます。

また本作は中央部が大きな空白となっているのが特徴ですが、これはもともと扇に描かれた構図であったためと言われ、宗達が扇職人であったという説の裏付けにもなっています。他にも上記の京都・三十三間堂の配置を意識したとか、奥行きを出すためなど、諸説あるようです。

 

尾形光琳(1658-1716)  「風神雷神図屏風」 (所蔵:東京国立博物館)

「風神雷神図屏風」尾形光琳 所蔵:東京国立博物館

俵屋宗達らによって創始された琳派ですが、その「琳」の字は尾形光琳から一字拝借したものです。それだけでも光琳の当時の評価がいかに高いものであったかを推して知るべしと言ったところでしょう。

しかし元々光琳は画家を志していたわけではなく、若い頃は実家の金で遊び歩く自堕落な遊び人でした。しかし実家の呉服屋の没落と生来の散財による借金を返すため、やむなく画業を始めたようです。“やむなく”で画業を始めるという感覚もすごいですが、ここで光琳は天賦の才を発揮し、瞬く間に売れっ子絵師として名を馳せました。

光琳の「風神雷神図屏風」は、ご覧のとおりほぼ完全な俵屋宗達版の模写です。さらに風神と雷神の姿が屏風の上に収まるよう微調整を図るなど、より完成度を高める工夫を見受けられます。

この「風神雷神図」を描いた1711年ごろ、既に売れっ子だった光琳があえて模写を行った理由は定かではありません。しかし晩年にこの構図を用いて傑作「紅白梅図屏風」を描いたことから、「風神雷神図」は光琳の画家人生にとって極めて重要な一作だったと言えるでしょう。

「紅白梅図屏風」尾形光琳 所蔵:MOA美術館

酒井抱一(1761-1829) 「風神雷神図屏風」 (所蔵:東京国立博物館)

「風神雷神図屏風」酒井抱一 所蔵:東京国立博物館

酒井抱一は江戸時代後期に琳派の再興に尽くした絵師で、とくに抱一が江戸で活動していたことから彼の流派を「江戸琳派」と呼びます。

抱一は画家ながら武家の名門酒井雅楽頭家(うたのかみけ)出身という異色の経歴を持っており、そのため琳派でありながらも江戸を拠点として活動してしました。

画風は「江戸琳派」の名のとおり琳派のスタイルを踏襲しており、中でも尾形光琳に深く傾倒していたことで知られます。光琳とは生存する時代が半世紀ほど世代が離れていましたが、抱一は熱心に光琳を研究してその画風を習得すると共に、俳味(俳句の持つ情緒や気風)を加えて抱一独自の表現を確立しました。

抱一の描いた「風神雷神図屏風」もまた俵屋宗達の模写のように見えますが、実際は光琳の模写版をさらに模写した作品となっています。ただ実物の宗達版や光琳版ではなく写本などを写したためか、描写に不安定な部分が目立ち、上記2名と比べると見劣りする感は否めません。しかし本作最大の特徴は、この金屏風の裏に別の作品「風雨草花図(通称「夏秋草図屏風」)」が描かれていることです。本作には天上の神から風雨を受け、地上で揺らめく草花が描かれており、「風神雷神図」に対する抱一の返歌(贈られた和歌に対して歌を詠んで返事すること)の意味合いが込められています。これも若い頃から俳諧など芸文に熱中していた抱一らしい、風雅で洒脱な趣向と言えるでしょう。

「夏秋草図屏風」酒井抱一 所蔵:東京国立博物館

葛飾北斎(1760-1849) 「風神」「雷神」(「北斎漫画」より)

「北斎漫画」より「風神」「雷神」葛飾北斎

もっとも有名な浮世絵師の1人として知られる葛飾北斎も、風神と雷神を描いています。彼の代表作の一つ「北斎漫画」に掲載されている風神と雷神は、躍動感あるポーズが印象的です。北斎がこのように描いた背景として、すでに風神と雷神が畏怖の対象から親しみあるモチーフやキャラクターとなっていたことが考えられます。

また江戸時代後期はすでに俵屋宗達の名は廃れ、琳派も酒井抱一ら一部を除けば完全に衰退の一途を辿っていました。そのため「風神雷神=建仁寺の金屏風」と連想できなくなってきたことも、風神と雷神の変化を後押ししたのでしょう。

 

河鍋暁斎(1831-1889) 「風神」「雷神」 (所蔵:ボストン美術館)

“画鬼”の異名で知られる河鍋暁斎は、戦後から明治にかけて活躍した奇想の日本画家です。歌川国芳の門下で浮世絵を学び、以降は狩野派、土佐派、琳派、四条派など、様々な流派の日本画を研究し、自らのものとしました。その画風は緻密な写実に優れる一方、極彩色のグロテスクな表現も取り入れた唯一無二の世界観となっています。

また暁斎は極めて多作な画家で、先人が描いた伝統的なモチーフにも積極的に取り組んでいます。「風神」「雷神」もその一つで、上記の尾形光琳や酒井抱一らと違って完全なオリジナルとして描き上げました。アウトラインの筆跡の荒々しさや、赤い線が疾走する稲光や風に舞う落ち葉など、全体に躍動感ある作品となっています。暁斎は他にも複数の「風神」「雷神」を描いており、このモチーフはお気に入りの一つであったようです。

「風神雷神」河鍋暁斎 所蔵:ボストン美術館

今村紫紅(1880-1916)「風神雷神」 (所蔵:東京国立博物館)

明治以降、芸術にも洋画といったこれまで日本になかったジャンルが多数到来します。今村紫紅は元々日本画の絵師でしたが、ウィリアム・ターナーの水彩画に倣って画壇に新風を吹き込みました。残念ながら35歳の若さで夭折しましたが、日本画と洋画を独自の感性で織り合わせた今村の作品は、今なお多くのファンを魅了しています。

今村の描いた「風神雷神」は、極めて簡略化されたスタイルで描かれており、さながら漫画のようです。輪郭線もほとんど描き込まれず、ほとんどの表現は濃淡で表されています。このシンプルでユーモラスな風神雷神は他作品とは一線を画すものであり、今村の意外な一面を知る絵として極めて貴重と言えるでしょう。

「北の天神縁起絵巻(弘安本)」より「 雷神」所蔵: 北野天満宮
「風神雷神」(絹本着色)今村紫紅 所蔵:東京国立博物館

前田青邨(1885-1977)「風神雷神」 (1949 所蔵:松山・セキ美術館)

戦後日本画の重鎮として知られる前田青邨は、鎧の小札(こざね)の一枚一枚が目視できる武者絵など、緻密で精巧な描写で知られます。しかしこの「風神雷神」はまるでコミックのように大胆にデフォルメされており、無邪気な子どもが戯れ合うかのようです。上下に風神雷神を並べる構図も珍しいですが、風神に至ってはお尻を向けているという有様。それでいて雲に垂らしこみを取り入れる点には画家の技術力の高さも伺えます。
青邨という画家のイメージからはかけ離れているかもしれませんが、こうした遊びが許される対象が風神雷神であったと言えるのではないでしょうか。

「風神雷神」前田青邨 所蔵:松山・セキ美術館

 終わりに

いかがだったでしょうか?

こうして歴史を振り返ると、風神と雷神も時代と共にそのあり方が様々に変化していることがわかります。

当初は畏怖の対象であり、“こわいこわい神さま”だった風神と雷神が、天才絵師俵屋宗達によって日本美術における象徴へと変化し、やがてその天才の威光から離れたところで親しみあるキャラクターへと変わり、現愛へと至っているわけです。

このように設定だけを残しながら様々な分野へと流用してしまうのも、日本人の特徴と言えるでしょう。では設定だけの存在になってしまったかというとそうではなく、本来の雷神の姿の一つである天神信仰もまた現代に継承されていますし、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は公開されるたびに長蛇の列ができるほどの人気を誇っています。おそらく日本の文化が継続される限り風神と雷神は私たちの心に生き続けるでしょうし、新たな顔を見せ続けるのでしょう。

 

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