2025.09.08
「ナチス略奪絵画、アルゼンチンで発見」—修道士画家 “フラ・ガルガーリオ”ジュゼッペ・ギスランディ
第2次世界大戦中にナチスが略奪したとされる17世紀の絵画が、80年以上の時を経てアルゼンチンの不動産広告写真から発見されたというニュースが世界を駆け巡りました。この劇的な出来事により、描いたとされるイタリアの画家、ジュゼッペ・ギスランディに再び注目が集まっています。
とはいえ、おそらく日本人の大半、というか90%以上はギスランディなんて知りません。こういう機会に掘り返せるだけ掘り返しておく方が良いと思うのです。
知られざる画家ギスランディ
ジュゼッペ・ギスランディ(Giuseppe Ghislandi, 1655年-1743年)は、バロック後期のイタリア人画家です。
「フラ・ガルガーリオ(Fra Galgario)」という別名でも知られます。むしろ日本ではこちらの名前の方が有名です。これは“修道士”を意味するイタリア語で、彼の画風にも大きな影響をもたらしています。
ギスランディは北イタリアのベルガモに生まれ、修道院で絵画を学びました。ローマで画業を研鑽した後、故郷に戻り、その生涯のほとんどをベルガモで過ごしました。
当時の肖像画が、富や権威を示すために豪華な衣装や背景を描く形式的なものが主流であった中、ギスランディは独自のスタイルを確立しています。彼は人物の地位や富だけでなく、その内面や個性を深く掘り下げて描くことに情熱を注ぎました。特に、光と影を巧みに操る「キアロスクーロ」の技法を駆使し、人物の顔や表情に心理的な深みを与えています。この「キアロスクーロ」は、バロック期に多くの画家が取り入れていますが、中でもカラヴァッジョは聖書やギリシャ神話をドラマチックに描いたことで知られます。
しかしギスランディはとくに肖像画における心理描写にその技法を用いたことで、まるでモデルが今にも語りかけてくるかのような、生き生きとした生命感に満ちています。
彼は、貴族や聖職者、知識人といったベルガモの有力者たちから多くの肖像画の依頼を受け、その卓越した技術と人間洞察力により、高い評価を獲得しました。
ギスランディの代表作
ギスランディの作品は、その写実性と深い人間性が高く評価されており、故郷ベルガモのアカデミア・カッラーラ美術館が世界最大のコレクションを誇ります。彼の代表作は、人物の個性と感情を繊細に捉えた肖像画が中心です。
《紳士の肖像Portrait of a Gentleman》(約1730年/ミラノ・ブレラ絵画館)
ギスランディ晩年の作品で、金・白・茶・奥深い黒を基調とした落ち着いた色彩が特徴的です。ロココ的魅力と写実性を両立させており、特に衣服やスカーフの質感描写に光る作品です。
《若い貴族の肖像Portrait of a Young Nobleman》(1700–1710年頃/ウォルターズ美術館蔵)
友人への贈呈と見られる本作は、リラックスした姿ながら隆々とした気品を感じさせます。彼の自然な表現と心理描写の力量を示す貴重な初期作です。
《コンスタンティヌス騎士団の騎士の肖像Ritratto di cavaliere dell’Ordine Costantiniano》(約1740年/ミラノ・Poldi Pezzoli美術館)
筆ではなく“指”のみで描かれた、この技巧的な肖像はギスランディの創造性と技術の集大成です。末期の創作ながらも高い評価を受け、最上位の作品とされます。
西洋美術史におけるギスランディの役割
ギスランディは、歴史画や神話画といったジャンルで名を馳せた同時代の画家たちと比べると、国際的な知名度は高くありません。しかし、彼の功績は西洋美術史において非常に重要と考えられます。
1. 肖像画の「心理的深み」の開拓
ギスランディの最大の功績は、肖像画に「心理的深み」をもたらしたことです。当時の主流であった肖像画は、貴族や聖職者の威厳や富を誇示するための、形式的で理想化された表現が中心でした。しかし彼は、モデルの地位や装飾だけでなく、その人物の内面、感情、性格、そしてその瞬間の心理状態までをも捉えようとしました。
ギスランディの描く人物は、光と影(キアロスクーロ)を巧みに操り、顔の皺、肌の質感、目の輝きといった細部にまで魂を吹き込むことで、見る者に深い人間的な共感を呼び起こしました。これは、単なる「似顔絵」の領域を超えた「精神の肖像」と呼べるでしょう。
2. 「自然主義的肖像画」の先駆者
ギスランディの肖像画は「自然主義的肖像画」の先駆者として位置づけられます。彼は、モデルのありのままの姿、時には欠点さえも隠さずに描くことで、形式ばった理想化された表現から脱却しました。彼の絵画は、その時代のイタリア北部、特にベルガモの市民たちの多様な表情を捉えるなど、風俗画的な要素を含んでいたわけです。
この自然主義的なアプローチは、後のロココ期や新古典主義期の肖像画、さらには19世紀の写実主義へと繋がる重要な道筋を示しました。彼の作品は、肖像画がより人間的で、個人の多様性を尊重するジャンルへと進化する上での、重要な転換点となったのです。
3. 北イタリアにおける画業の確立
ギスランディは、国際的な宮廷で活躍するよりも、故郷ベルガモとその周辺地域に根ざして活動しました。しかし、このことは彼の芸術的影響を限定するものではありませんでした。彼は、ローマでの修業を通じて、当時の著名な画家たちの技法を吸収しつつも、独自の表現を追求しました。
彼は、ベルガモの有力者たちから絶大な信頼を得て、膨大な数の肖像画を制作しました。彼の存在は、北イタリアの地域美術において、肖像画の地位を確立し、多くの後続画家たちに影響を与えました。彼の作品は、ベルガモの文化遺産としてだけでなく、イタリアのバロック美術の多様性を示す貴重な例として、今も高く評価されています。
「貴婦人の肖像」のこれからを考える
今回発見された「貴婦人の肖像」は、ナチスがユダヤ人から略奪した美術品をめぐる、歴史的な正義と倫理の問題を改めて浮き彫りにしました。このニュースは、ギスランディのような知られざる画家にも、美術市場や研究の世界で再び光を当てるきっかけとなるでしょう。この作品の真贋鑑定、そして正当な所有者への返還プロセスは、今後も世界中の美術関係者や歴史家の注目を集め続けることになります。
今回の件を機に、ギスランディの芸術性が再評価され、彼の作品がより多くの人々に知られることを期待します。