2024.10.26
【今日の一枚】田中一村「不喰芋(クワズイモ)と蘇鐵(ソテツ)」【東京都美術館で公開中】
作品を見てみましょう。南国特有の濃い色彩で描かれた植物たちの共演は、一村が奄美大島移住後に創作の柱となった自然信仰が画面の中に凝縮されています。
描写はかなり二次元的です。これはヨーロッパのアートシーンで19世紀後半以降に生まれた表現主義の流れを意識したものと考えられます。この芸術運動はポスト印象派と呼ばれるゴッホやゴーギャン、セザンヌらが脚光を浴びるきっかけとなり、輪郭線を明確に描き込むなど二次元的な画風で対象の存在感や永遠性を重視していました。「不喰芋(くわずいも)と蘇鐵」にも同様の傾向が見られますが、これは田中一村が自らの画風を確立する上で彼らポスト印象派や表現主義の作品を研究していたためと考えられます。
このように現代でも古さを感じさせない圧巻の作品を描き上げた一村ですが、しかし生前の田中一村は驚くほどに無名の画家でした。画壇で彼が評価されたことはほぼ一度も無く、当時の一流画家だった東山魁夷らの交友関係の中で一村の名前はほとんど登場しません。そんな南国の忘れ去られた画家・田中一村とはどんな人物だったのでしょうか。
謎多き画家・田中一村
作者の田中一村は、しばしば“孤高の天才”と称されます。実際、存命中にはほぼ無名の存在であり、彼の3回忌に故郷の奄美で開催された回顧展でようやく地元メディアに取り上げられる程度でした。しかし4年後の1984年にNHK教育テレビ「日曜美術館」が田中一村の特集を組むと、一気にその人気が爆発します。評伝や画集が次々に出版され、通算45カ所もの三次にわたるメディアによる巡回展や、九州や栃木での15回近くの単独展が開催され、2001年には鹿児島県が主要な作品を収集して奄美パーク 田中一村記念美術館を開館するまでに至りました。
その一方で田中一村の人物像はいまだに多くの謎に包まれています。幼少期から南画のジャンルで絵の才能を表したにも関わらず、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科を入学後わずか2ヶ月足らずで退学します。理由は病気とも教師との指導方針の決裂とも、もしくは家庭の事情とも言われますが、明確な理由は現在も不明です。
またその後はそれまで制作を続けていた南画からの決別を表明し、母や姉らと苦しい経済事情のまま千葉に居を移します。以降、10年以上にわたって別の仕事をしながら絵の研鑽を積み重ねるものの、すっかり画壇とは疎遠な生活を送るようになりました。
ところが1947年、39歳の時に川端龍子を頼って再び公に作品を発表し始め、第19回青龍展で人生初の入選を果たします。しかし翌年の第20回展に出品した2作のうち1作(題「秋晴」)の落選に納得できないことを理由に、もう1作(題「波」)の入選を辞退し、川端龍子と不仲になってしまうのです。それほどに落選が納得できなかった理由についてもよくわかっていません。また川端龍子とのコネクションが切れれば画家としてのキャリアがいよいよ絶望的になることは想像がつきそうですが、一村がそれをわかっていたかどうかもはっきりしません。それでもその後約10年にわたって日展や院展に出品を続けますが、いずれも落選に終わります。
そして1958年12月13日、一村はついに終の住処となる奄美大島へと渡ります。一度は島生活に行き詰まって千葉に戻りますが、1961年に再び奄美大島に移り住み、紬工場で働いて資金を稼いでは絵画制作に没頭するという生活を始めました。ただし、この決断にも奇妙な点がいくつもあります。まず12月の奄美は南国とは程遠く、本州とさほど変わらぬ寒さに厳しい海風が吹き付ける厳しい気候でした。春から秋にかけてならともかく、あえてこの時期にどのような心境で移り住んだのでしょうか。そして奄美大島に移住すればいよいよ中央画壇とは絶縁状態になるわけで、それでも制作活動を継続したのはなぜなのか、この点は田中一村という画家最大の謎とも言えるでしょう。純粋に絵描きだけは続けていきたかったのか、それとも何か密かな計画があったのか、現在も定かではありません。
田中一村は日本のゴーギャンか?
中でもポール・ゴーギャンは、一村と同じく南国の離島(タヒチ)に活路を見出そうとしたという点で共通することから、“日本のゴーギャン”として度々イメージを投影されています。確かに2人とも南国で一種の信仰的な世界観を解放しています。表題の「不喰芋(くわずいも)と蘇鐵」も「立神(たちがみ)」など土着のアニミズムの要素が取り入れられており、一村流の『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』と解釈されるのもある意味で必然なのでしょう。
しかしながら2人の辿った足跡は必ずしも同じとは言えません。とくにゴーギャンは20代後半にしてようやく絵画を始めた遅咲きの画家であり、10代ですでに南画家の“神童”と期待された一村とは大きく異なります。ちなみにそれまでは株式仲買人として多額の取引を手がけ、大きな利益を得ていました。一方で一村が生涯わずか一度の入選しか果たせなかったのに対し、ゴーギャンは1876年にサロンで入選したり、最初のタヒチ滞在後に描いた作品が高値で売れるなど、画家として一応の成功を収めていました。
性格的な部分でも、2人は大きく異なります。ゴーギャンは、パリでは印象派グループと、またブルターニュ地方のポン=タヴァンでは若手画家と積極的な交友関係を広げるなど社交的な性格で、また女性関係も最初の妻メットや、タヒチ滞在中に2番目の妻テハーマナの他、10代の少女を囲うなど、かなり奔放でした。逆に一村は東京芸術学校を退学後に家族以外との交友関係が疎遠になってしまうことの人付き合いの悪さで、女性関係でも生涯独身を貫くなどあまり積極的ではなかったようです。
ただし2人に共通点がなかったわけでもありません。中でも保護者が教育熱心であり、レベルの高い教育を施されていたという点は少なからず人生に影響を与えていたのではないかと考えられます。一村は5歳で栃木から東京千代田区の三番町に一家で引っ越しましたが、ここには教育熱心だった母親の意向があったようです。三番町は当時から皇居に近い一等地として上流階級の邸宅が多数連なり、教育レベルも極めて高いものでした。そこで私学の名門・芝中学校に通う傍ら、南画の英才教育を施されて「神童」と呼ばれるほどの腕前に成長したわけです。またゴーギャンは、父親がリベラル派のジャーナリスト、母親が南米ペルーの名門貴族の出身であったことから物心着く頃にはハイクラスの生活を送り、7歳でフランスに移住後は地元の格式高いカトリック系寄宿学校に通っていました。穿った見方をすれば、2人とも高い教育を受けると共に、プライドも相応に高まっていたのではないでしょうか。
理由が不明と言われる一村の東京芸術学校の退学も、上記の点を考慮すれば理解できないことではありません。折しも明治維新後の西洋絵画が持てはやされた時代、一村の磨き上げた南画は時代遅れとして軽んじられたでしょうが、神童として持て囃されてきた一村がそれを受け入れ難く、簡単に「じゃあ南画をやめて西洋風の絵を描きます」とは言えなかったことは想像に難くありません。また中央画壇で再起を図ろうとしてもなりふり構わず…というところまで振り切れない、手段にもどこか自分の考える正当性を通したいところがあったのではないかと考えられます。
閻魔大王への土産品
本作は、もう一つの奄美の代表作「アダンの海辺」と共に代表作とされます。
現在開催中の展覧会「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(東京都美術館)ではその2点が14年ぶりに揃って展示されるのも大きな見どころになっています。
ぜひこの機会に稀代の天才画家・田中一村の画業と、謎多き彼の人生に触れていただければ幸いです。
展覧会情報
会期 |
2024年9月19日(木)〜12月1日(日)
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開館時間 |
9:30〜17:30、金曜日は9:30〜20:00
※入室は閉室の30分前まで |
料金 |
前売券
一般 1,800円 大学生・専門学校生 1,100円 65歳以上 1,300円当日券 一般 2,000円 大学生・専門学校生 1,300円 65歳以上 1,500円 |
休館日 | 月曜日、9月24日(火)、10月15日(火)、11月5日(火)※ただし、9月23日(月・休)、10月14日(月・祝)、11月4日(月・休)は開室 |
公式サイト | https://isson2024.exhn.jp/ |
会場 |
東京都美術館
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住所 |
〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36
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