2022.02.25
ヴェネツィアを旅した画家6選
今回は「ヴェネツィアを旅した画家6選」と題し、ヴェネツィアに足を運んだ芸術家とその作品をご紹介します。
ヴェネツィアは世界に名だたる観光地となったのは昨今の話ではなく、昔から多くの観光客そして芸術家たちを魅了してきました。その美しい街並みに惹かれた芸術家も数多く、歴史に名を刻んだ著名な画家たちもこの街を訪れ、作品のインスピレーションを得てきました。今回はそんなヴェネツィアを旅した6人の芸術家と、その作品についてご紹介いたします。
なお、本文にてヴェネチア、ベネチア、ヴェニス、ベニスという表記が混在しています。イタリア語で読むか英語で読むかなので音は変わりますが4つの言葉は同じ場所を指しています。それをご注意の上お読みいただけると幸いです。それでは解説を始めてまいります。
エル・グレコ
エル・グレコ(El Greco、1541年 – 1614年4月7日)は、現在のギリシア領クレタ島、イラクリオ出身の画家で、本名はドミニコス・テオトコプロスと言います。一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたため、イタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコに、スペイン語の男性定冠詞エルがついた通称になります。
スペイン人と勘違いされることの多いグレコですが、そのルーツはギリシャにあり、そして青年期の大半をヴェネツィアで過ごしていたのです。
1567年にヴェネツィアへ渡ったグレコは、ルネサンス・ヴェネツィア派の巨匠ティッツァーノに弟子入りし、色彩や遠近法、解剖学、油彩技法の使用などヴェネツィア・ルネサンス方式の画法を学び、さらに西欧流の技法や図像、地図製作の知識も習得しました。これを皮切りにイタリア各地を巡ったグレコは、1577年頃にスペイン・マドリードへ移り大成功を収めます。おそらくヴェネツィア時代の修行がなければ、グレコは画家として大成しなかったかもしれません。
グレコの現存する作品のおよそ85%が聖人画を含む宗教画、10%は肖像画によって構成されているため、ヴェネツィアの風景を描いた作品はほぼ存在しません。しかし「ジュリオ・クローヴィオの肖像」は、イタリア移住を助けた恩人ジュリオ・クローヴィオの肖像画で、グレコのヴェネツィア時代を知る上で貴重な作品となっています。
ウィリアム・ターナー
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner、1775年4月23日 – 1851年12月19日)は、イギリスのロマン主義の画家です。若い頃から売れっ子画家として活躍したターナーは西洋美術史において初めて成功を収めた風景画家であり、イギリスでは現在でも国民的画家として高い人気を誇ります。
好んで風景画を描いたターナーは、美しい景色を求めて広く旅をして回り、とくにヴェネツィアの風景を愛しました。1819年、44歳の時に初めて訪れると、以降も度々この街に赴いて優れた水彩画と多数のスケッチを残しています。ヴェネツィアの訪問を経たターナーの作品は、画面における大気と光の効果を追求することに主眼がおかれ、色鮮やかで抽象的な作風へと変化していきました。「ベネチア、マドンナ・デッラ・サルーテのポーチから」はヴェネツィアを描いた代表作の一つであり、後期のターナーらしい明るい光と柔らかな大気の流れが印象的です。
エドゥアール・マネ
エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 – 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家です。印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として広く知られます。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出す作風はたびたび物議を醸し、特に1860年代に発表した代表作『草上の昼食』と『オランピア』は、絵画界にスキャンダルを巻き起こしました。
上記のとおりマネの作風は日常の身近な題材を取り扱うことが多かったため、生涯にわたってほとんどパリを離れることはありませんでした。しかし下積み時代の1853年には勉強のため、1874年には知人のカーティス夫妻に招かれてヴェネツィアを訪れています。「ヴェニス、グランドカナール」は、そのカーティス夫妻に招待された際のスケッチを元に描いた作品です。大胆なフレーミングは浮世絵などからの影響が伺え、後の印象派へと継承されていくこととなります。
クロード・モネ
クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 – 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家です。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来にもなりました。日本にもファンが多く、松方コレクションの「睡蓮」など100点以上の作品が国内にあると言われます(1994年時点)。
モネがヴェネツィアを訪れたのは1908年、68歳の時のことです。すでに晩年に差しかかっていたモネは2番目の妻アリスと共に10週間を過ごし、37枚の作品を描きました。運河やドゥカーレ宮殿など街の象徴的な景観をモデルにした滞在時の作品群は、モネらしい光のゆらめきと人の気配の無い世界観が印象的です。1912年には、この時の作品のうち29点がベルネーム=ジューヌ画廊に展示され、画家のシニャックに「モネ芸術の最高の表現」と絶賛されました。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841年2月25日 – 1919年12月3日)は、フランスの印象派、ポスト印象派の画家です。肖像画や複数人物の群像を描いた作品に定評があり、とくに女性美を追求したことでよく知られます。またモネと同様に日本でも人気が高く、多くの作品が収蔵されています。
人物画が得意なルノワールにとって旅行は無縁と思われるかもしれません。しかし1880年ごろのルノワールは印象派のスタイルに疑問を持ち始め、スランプに陥っていました。そして1881年、突然イタリア旅行を決行します。その最初の目的地がヴェネツィアでした。この街でルノワールは積極的に風景画を制作し、1882年の第7回印象派展に出品しています。『ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥッカーレ』はその一作で、批評家フィリップ・ビュルティから絶賛を受けました。しかしこの旅で一番の収穫はこれらの風景画ではなく、イタリア古典美術との出会いでした。古典を踏襲するアカデミズムを嫌悪していたルノワールはラファエロらの古典作品から大きな衝撃を受け、以降は様式美を脱却して晩年の豊満で生命力に満ち溢れた作風へと転換するきっかけを得たのです。
バンクシー
バンクシー(Banksy, 生年月日未公表)は、イギリスを拠点とする素性不明のストリートアーティスト、政治活動家、映画監督です。2018年10月7日、サザビーズオークションへ出品された『赤い風船に手を伸ばす少女』が約1億5千万円で落札された直後、額縁に仕掛けられたシュレッダーが作動して作品は切断された動画が世界中に拡散され、バンクシーは一躍世界的芸術家へと上り詰めることとなりました。
バンクシーの活動は路上で制作されるストリートアートが主体であり、ヴェネツィアに足を運んだのもその創作活動の一つでした。2019年5月、彼はヴェネツィア・ビエンナーレのストを決行し、当時問題となっていた港湾封鎖による難民の受け入れ拒否を批判しています。「Naufrago bambino (難波した子ども) 」はその際に描かれた壁画で、ピンク色の発煙筒をかざす子どもは、海に取り残された移民を指し示しています。シュレッダー動画で時の人となったバンクシーを追い求めるマスコミにより、本作も広く世界に発信されることとなりました。
まとめ
いかがでしたか?
昔から美しい街並みで多くの人々を魅了してきたヴェネツィアは、多くの芸術家を惹きつけ、そして創作活動のターニングポイントとなった街でもあったわけです。
おそらくこれからもこの街との出会いを経て大きく成長していく芸術家が出てくるに違いありません。
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