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2022.04.22

知っておきたいウクライナを代表する10人の芸術家

224日、ロシアのプーチン大統領が軍事作戦を発表し、ウクライナへの軍事侵攻に踏み切っておよそ2ヶ月。首都キーウではロシア軍とウクライナ軍とが衝突し、各地で多くの死傷者と甚大な被害が出ていることが報じられています。

現地メディアのキエフ・インディペンデントによれば、現地時間227日、首都キエフの北西に位置するイヴァンキフ歴史・地方史博物館がロシア軍の攻撃によって焼失。ウクライナの国民的画家であるマリア・プリマチェンコの作品25点も焼失したという報道が出ています。

現在、最優先されるべきはウクライナをはじめとする現地の人々の命の安全に他なりません。しかし今回の軍事行動によって貴重な芸術作品、文化遺産が失われることは、ウクライナのみならず世界にとって大きな損失です。

ここでは、ぜひウクライナの芸術を知っていただけたらと思い、代表的な芸術家10人とその作品をご紹介したいと思います。

ヨフ・コンツェレヴィッチ
Йов Кондзелевич

子供を持つ神の母のアイコン 1722年 ザゴロフスキー修道院

ヨフ・コンツェレヴィッチ(1667 -1740) は、ウクライナのイコン画家、ビロストク修道院(ウクライナ)の長老。

イコンはキリスト、聖人、天使、聖書における重要な出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた画像のことです。主にロシア正教で用いられるものを指します。またイコンを描くという行為は祈りの一つと見做されるため、イコン画家は一種の聖職者であることを求められます。こうした伝統的な制約の中、コンツェレヴィッチはイコンの図式を大きく広げ、周囲の環境、特に風景に多くの注意を払うなど、表現者としても大きな功績を果たしました。

マニアヴァ修道院の聖障(イコノスタシス) 所蔵:リヴィウ国立博物館

ゾフクヴァ美術学校で修行したコンツェレヴィッチは、キヴァン洞窟修道院のイコン画工房や外国で絵を学んだと考えられます。ビロストク修道院のイコノスタシス(至聖所を区切る教会の壁)には「6人の使徒」と「休息」が描かれ、ザホリウ修道院の幕屋には「ヨアヒムとアンナ」、「三位一体」、「洗礼」、「殉教者聖バルバラ」、「大助祭スティーブン」が描かれています。

1698-1705年にはマニアヴァ修道院の聖障(イコノスタシス)が制作されました。本作はイコン画の傑作として広く知られており、1923年にボホロドチャニのイコノスタシスの名でリヴィウの国立博物館に寄託されています。

 

タラス・シェフチェンコ
Тара́с Григо́рович Шевче́нко

タラス・シェフチェンコ 1859年

タラス・グリゴリエヴィチ・シェフチェンコ(181439 – 1861310日)はウクライナの詩人、画家。近代ウクライナ語文学の始祖と評価されています。

農奴の家に生まれたシェフチェンコは11歳で孤児に、14歳で小間使いとなるなど、過酷な少年期を過ごしました。しかし雇い主だった地主の計らいによりロシア画家V.シリャイエフの弟子となると、次第に画才を発揮します。また同時期、密かに詩作も始めると、絵画と同様に優れた作品を書き、双方で多くの関係者が高く評価するようになりました。やがて農奴から解放されたシェフチェンコはロシア帝国美術大学に入学、ロシア絵画の巨匠ブリューロフに弟子入りするなど、本格的に画家として頭角を表していきます。また詩の世界でも「コブザール」「ハイダマークィ」などの名作を次々に書き上げました。

ジプシー占い師 1841年 所蔵 タラス・シェフチェンコ国立博物館

 

「コブザール」1840年版の表紙と最初のページ

現在でもウクライナの芸術を象徴する存在として高い人気を誇り、首都キーウには彼の名を冠したタラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学があります。

 

セルヒーイ・イヴァーノヴィチ・ヴァスィリキーウシクィイ
Сергі́й Іва́нович Василькі́вський

ヴァスィリキーウシクィイ 1900年

セルヒーイ・イヴァーノヴィチ・ヴァスィリキーウシクィイ(1854107 – 1917108日)は、近代ウクライナの画家。主にウクライナの自然や農村の風景、そしてコサックの歴史と伝統をテーマとした作品で知られます。

旧スロボダ・ウクライナ出身で、サンクトペテルブルク美術アカデミーで学んだ後、故郷ウクライナの風景を描いた作品で評価を高めました。その後、パリに住みながらヨーロッパ諸国を旅する生活を送り、晩年は故郷ウクライナに戻って母国の美術発展に尽力しています。1917年に亡くなるまで3000点に及ぶ作品を遺しましたが、第二次世界大戦によってその大半が失われました。

コサックの牧草地

 

ガリーナ・ズブチェンコ
Галина Олександрівна Зубченко

ガリーナ・ズブチェンコ 1999年 キーウ

ガリーナ・ズブチェンコ(1929719 – 200084)は、ウクライナの画家, 社会運動家。主にウクライナの山岳風景や民族衣装をモチーフとした作品を描きました。

1929年、キエフの科学者の家系に生まれたガリーナは、国内で活躍する画家たちの元で美術を学びます。1956年、スケッチのため訪れたカルパティア山脈で民族表現に目覚め、ウクライナの風景や民族衣装などを描き、大きな注目を集めました。また社会運動家としての活動や芸術家のユースクラブ設立などにも取り組み、生涯にわたって母国のために尽くしました。

銀の夕べ  1963年 イバン・ゴンチャ博物館 Ivan Gonchar Museum, Kiev

 

テチヤナ・ヤブロンスカ
Яблонська Тетяна Нилівна

ヤブロンスカ

テチヤナ・ニリヴナ・ヤブロンスカ(1917224 – 2005617日)は、20世紀を代表するウクライナの芸術家の一人。キエフ美術学院で学び、ウクライナの有名な画家フェディル・クリチェフスキーに弟子入りします。ソビエト社会主義リアリズムの体制にあって、世界とウクライナの芸術の伝統を表現したことで高く評価されています。初期の作品は形式主義的だと批判され、公式に認められたのは1949年の絵画大賞の後になります。とくに民芸品に興味を持ち、田舎を旅して創作のヒントを得るようになります。やがて彼女は自然の一般的なイメージに移行し、造形と色のリズムの繊細さを表現する方向へと移行していきました。

パン 1949年 所蔵 トレチャコフ美術館

1997年に「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」(ユネスコ)、2000年に「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」(国際伝記センター、ケンブリッジ)に選出。ウクライナ・シェフチェンコ国家賞(1998年)、ウクライナの最高国家賞であるウクライナ英雄賞(2003年)を受賞するなど、ウクライナの芸術史にとって欠かせない画家の1人と言えるでしょう。

また教え子に、ミハイル・トゥロフスキーがいるなど、後進の育成にも貢献しています。

 

ヨハン・ピンゼル
Галина Сильвестрівна Севрук

聖ゲオルギウス像 1760年 聖ユーラ大聖堂

ヨハン・ゲオルク・ピンゼル(?-1761もしくは1762)は、ドイツまたはチェコ出身のバロック-ロココの彫刻家。紅ルーシ(当時のポーランド、現在のウクライナ)で活動した。

ピンゼルの伝記的な詳細はほとんど現存しません。ポーランドの歴史家ヤン・ボウォズ・アントニエヴィッチによって発見され、1923年にヴワディスワフ・ジワのモノグラフ「Kościół i klasztor Dominikanów we Lwowie」(「リヴィウのドミニコ教会と修道院」)で学術的に紹介されたことで、初めてその名を知られることとなりました。その後再び忘れられそうになるものの、1960年代半ば、リヴィウ美術ギャラリー館長を務める美術史家ボリス・ヴォズニツキによって、当時歴史と政治に埋もれかけたピンゼルは発見されます。当時はソビエト連邦体制の宗教政策によって厳しく取り締まりが行われていましたが、彼は私財を投じて作品を収集・修復し、命がけでピンゼルの作品を守り続けました。

1740年代よりポーランド・リトアニア共和国の東端(現ウクライナ西部)のポジーリャ地方で彫刻の制作を開始します。大貴族ミコワイ B. ポトツキの依頼を受け、リヴィウやブチャチ(ウクライナの都市)で教会の祭壇彫刻を多数製作しました。弟子も育て、ピンゼル派も生まれています。
現在、ピンゼルはリヴィウバロックの代表的彫刻家で、他に類を見ない独自の木彫芸術を残しており、キュビスム的、あるいは日本の運慶のようだとの評価を受けています。このように近年研究が進められているものの未解明の部分は多く、1761年に没したと推定されているが、詳細は不明です。

磔のキリスト像 1755年-1760年頃、リヴィウ美術ギャラリー蔵

日本では20109月に片山ふえ『オリガと巨匠たち――私のウクライナ紀行』(未知谷)で初めて紹介されたのち、20111010日放映の日本放送協会『極上美の饗宴』でとりあげられ、翌11月には作品集『ピンゼル』が未知谷より公刊された。

 

ムィコーラ・プィモネーンコ
Тетяна Ниливна Ябло́нська

プィモネーンコの自画像

ムィコーラ・コルヌィーロヴィチ・プィモネーンコ(186239 – 1912326日)は、ウクライナの女性画家。

ウクライナの風景・農村をテーマにした絵画で知られます。キエフのペチェールスク大修道院でアイコン絵画を学んでいたところをキエフ美術学校の創設者ムィコーラ・ムラーシュコにその画才を見出され、同校で本学的に美術を学びました。その後、評価を高めたプィモネーンコは帝国美術院へと進みますが、体調不良と財政難によりやむなく退学し、地元キエフに戻ってキエフ美術学校の製図教師を務めました。

キーウの花屋 1908年 ウクライナ国立美術館

本格的に画家として名声を高めたのは、1880年代末にウクライナの伝統的な風景や民族性を題材にし始めたのがきっかけでした。これにより国内での評価を高め、1890年代には国際展でも大成功を収めるようになります。とくに「ゴパック」はフランス芸術家協会パリ・サロンの金賞を収め、ルーブル美術館にも収蔵されました。

イースター早課(1891)、 帆布、油、ルイビンスク州立歴史-建築美術館-保護区

 

オレクサンドル・ムラシュコ
Олександр Олександрович Мурашко

ムラシュコによる自画像

オレクサンドル・ムラシュコ(187597 – 1919614日)はウクライナの画家。

元々はロシア移動派の影響を受けた写実主義者でしたが、後にミュンヘンやパリでの生活の影響を受け、当時芸術界の最先端にあった印象派へと傾倒していきます。 そのモダニズムは、後の社会主義リアリズム期のウクライナの画家にも影響を与えていくことになりました。ムラシュコの作品はストーリー性が少ない一方、極めて表現力豊かなものが多く、これは当時のウクライナ画壇としては極めて異例な存在だったと言えます。

また第一次世界大戦後にウクライナが独立すると、1817年にキエフの美術アカデミーの設立メンバーの一人となり、1918年にウクライナ人民共和国の教育のための諮問委員会の委員として後進の指導にも尽力しました。しかし1919年、ストリートギャングの襲撃を受け、43歳の若さでこの世を去ってしまいます。ムラシュコは愛国心が強く、祖国の芸術の発展に情熱を注いでいたと言われるだけに、その死はウクライナにとってあまりにも大きな損失だったに違いありません。

赤い帽子をかぶった少女 1902-1903 ウクライナ国立美術館 

マリ・バシュキルツェフ(マリア・バシュキルツェヴァ)
Башкірцева Марія Костянтинівна

バシュキルツェフ20歳の肖像 1878年

マリ・バシュキルツェフ(Marie Bashkirtseff)ことマリヤ・コンスタンチノヴナ・バシュキルツェヴァ(18581111 – 18841031日)は、ウクライナ出身の女性画家・彫刻家・日記作家。ウクライナ史上、初めてフランス芸術界で名を馳せた女性画家です。

ガヴロンツィ村(現在のポルタヴァ地区)出身の彼女は貴族階級の出身でしたが、幼い頃に両親が離婚し、1870年以降は母親と共に、ドイツやリヴィエラなど、海外を旅して暮らし、最終的にパリへと定住しました。

元々は声楽家を目指していたバシュキルツェフでしたが、病気で声を失ったことから、画家の道を目指すようになります。美術学校アカデミー・ジュリアンでルイーズ・カトリーヌ・ブレスラウらと切磋琢磨した後、1880年にサロンに初出品を果たしました。1884年には「集合」が佳作を受賞し、オルセー美術館に買い取られています。

集合 1884年 オルセー美術館

しかし彼女の名をもっとも有名にしたのは、13歳から書き続けた日記でした。1887年に刊行された「バシュキルツェフの日記」は「若い才能豊かな心の、驚くほど現代的な心理的自画像」と称賛され、現在では日記文学の金字塔として世界中で読み継がれています。

わずか25歳でこの世を去ったバシュキルツェフですが、その短い人生の中でパリの文化人として名を馳せ、数多の絵画を描き、文筆家として代表作を後世に遺したのです。

 

マリア・プリマチェンコ
Марія Оксентіївна Примаченко

マリア・プリマチェンコの100周年記念銀貨 2008年

マリア・プリマチェンコ (19081230–1997818)は、ウクライナの画家。素朴派の民族装飾芸術家の代表格として知られ、国内では国民的画家の1人に挙げられます。

1908年、ロシア帝国の支配下にあったウクライナのキーウ近郊のボロトニア村で、大工の父、刺繡職人の母の間に生まれました。そして88年の人生のうちほとんどを生まれ故郷の村で過ごした異色の画家です。

プリマチェンコの創作の基礎は、母から習った刺繍の手仕事でした。幼い頃に小児麻痺を患った彼女は、刺繍に打ち込む中で独自の芸術世界を構築していきます。やがて絵画へとジャンルを移行すると、世界中が彼女の世界観に魅了されていきました。パブロ・ピカソはパリ万博で彼女の作品を目にした際、「この素晴らしいウクライナ人の芸術的奇跡の前に私はひれ伏す」と絶賛しています。

春に散歩する二羽のオウム 1980年 出典=Wikiart(https://www.wikiart.org/en/maria-primachenko/two-parrots-took-a-walk-together-in-spring-1980)

プリマチェンコの創作は、故郷での伝統的な暮らし、ウクライナの歴史がベースとなっており、さらに第二次世界大戦後は夢や空想の世界が織り込まれていきました。そこには、戦争で恋人や弟を失った悲しみや、平和への願いが密かに込められており、現代では彼女の作品を平和と反戦のシンボルとして度々シェアされています。

記念切手に描かれた「青牛」 1947年

しかしキエフ・インディペンデントによると、現地時間227日、首都キーウの北西に位置するイヴァンキフ歴史・地方史博物館がロシア軍の攻撃によって焼失。プリマチェンコの作品25点も焼失したという悲しいニュースが報じられました。平和を願った彼女の作品が戦争によって失われたというのは、酷い皮肉としか言いようがありません。この事件を通していっそうウクライナとプリマチェンコへの関心が高まり、ロシア侵攻の抑止へとつながっていくことを願って止みません。

 

いかがでしたか?
冒頭で述べたとおり、最優先されるべきはウクライナをはじめとする現地の人々の命の安全に変わりはありません。
しかし素晴らしい芸術作品や文化が破壊し踏み躙られる連日のニュースを見るに、日一日と人々の中から心が失われていくように思われます。

今は少しでも早期にこの戦争が終息することを祈りつつ、被害を受けるウクライナの貴重な芸術を少しでも多くの方に知っていただくことで、思いを共有できれば幸いです。

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