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2023.07.19

ターナー、知らない方がいいかもしれない10の秘密

18世紀の巨匠J・M・Wターナー(ジョセフ・マロウド・ウィリアム・ターナー、Joseph Mallord William Turner)は母国イギリスのみならず世界を代表する画家であり、彼が西洋美術史に遺した功績は今なお計り知れません。中でも光や大気、水の演出に優れており、「光の画家」とも称されます。光の描写と言えばフランス印象派が先駆者としてのイメージがあり、確かに彼ら印象派の最大の特徴は屋外で目に見える光のありのままを描いたこととされています。しかし実際はターナーの方が遥かに早い段階で着手しており、近年の研究では印象派の代表クロード・モネが彼の作品に影響を受けていたとする調査もあります。さらに彼の独創的なモチーフ描写は年齢と共に抽象的な様相を見せ始めたことから、印象派の後に始まった表現主義、現代アートの観点も持ち合わせていたのではないかと言われているのです。

そんなターナーは現代でも絶大な人気を誇り、たびたび彼の功績に着目した展覧会も開催されています。そんなターナーについて、わざわざ知らなくてもいいような余計な秘密をご紹介いたします。彼についてネガティブな印象を持ちたくないという方、そっとブラウザを閉じてください。

1.自画像をイケメンに描きすぎた

ターナーの秘密と言えばこれ。
画家は基本的に自意識の強い人間が多いと言われますが、ターナーの自画像だけは別格です。
まずは実際の作品をご覧ください。

『ターナーの肖像』(1799年)テート・ギャラリー(ロンドン)

基本的に彼の自画像はこの1799年の作品を指し示します。確かにアッシュがかった金髪に目鼻の整った細面の顔つきは現代でもイケメンで通用しそうです。でも「言うほどイケメンに描いてるか?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
というわけで、次の秘密をご覧ください。

2.実際はイケメンではない

はい、これですね。
ターナーは自分を描かれるのをあまり好まなかったと言われますが、それでも親交のあったチャールズ・ターナー(別人、血縁関係はない)やジョン・リンネルら数名の画家が彼のポートレートを描いています。

『ターナーの肖像』 チャールズ・ターナー(1841年)英国美術館
『記憶を元に描いたターナーの肖像』ジョン・リンネル 国立肖像画博物館

自画像と比較すると完全に別人です。
チャールズ・ターナーらがあえて悪く描いたのではないかと思われる方もいるでしょう。しかし彼らの描いたターナー像はいずれも特徴が一致しており(太い眉、鷲鼻、がっしりとした骨格、垂れた目)、似顔絵としての精度は高いのではないかと考えられます。
さらにターナーの父親ウィリアムをターナー自身がスケッチしたイラストが残されているのですが、驚くほどに父子の顔は似ています。言い逃れはできないでしょう。そもそも喋りようがないのですが。
それではなぜこんなに自分を美化した自画像を描いてしまったのか。
一説にはターナーが自分の顔を嫌っていたからと言われます。確かに下町の庶民の子として生まれたターナーが大都会ロンドンの華やかな上流階級だらけの社会でコンプレックスを抱えていたとしてもおかしくはありません。
しかしもう一つ、このように別人のような自画像を描くに至った秘密があるのです。
というわけで、次の秘密。

3.人物画が得意でなかった

とにかく風景画を描かせたらイギリスどころか世界一でも指折りのターナーですが、意外にも人物画はあまり評価されていません。
と言うより、単純に人物画自体がほとんど現存していないのです。
別にターナーが人物画を描かなかった訳ではなく、中でもヌード画は多かったのではないかと考えられます。しかし当時の著名な美術評論家ジョン・ラスキンが「偉大なターナーのイメージを汚す」として大量に処分してしまったのです。(決して下手だったからではありません)
ラスキンは生前からターナーの熱狂的な信奉者だったため、このような暴挙に走ってしまったと考えられます。
それではターナーが描いた数少ない人物画をご覧ください。

『二つの横たわる裸婦』(1828年)

『手紙を持った2人の女性』(1830年)テートギャラリー、ロンドン

 

『ジェシカ』(1830年)テートギャラリー、ロンドン

いかがでしょうか。
どれもぼんやりのっぺりとしていて、面長の首長と言いますか。
なんだか親指のようで・・・
若い頃はそれなりに写実的な絵を描いていたようですが、それもどこか奇妙です。
こうしたターナーの人物画を見ていると、もしかしたら一生懸命に鏡を見ながら自画像を描いたらこうなってしまったのではないか、とも考えられなくもありません。
もちろん、無意識下に手心を加えた可能性も大いにありますが。

4.ライバルへの当たりがきつかった

ターナーはコンプレックスの塊のような人でした。下町育ちの庶民階級出身、家庭に問題を抱え、背は低くてずんぐりむっくり、厚ぼったいゴツゴツとした顔つき。彼は絵画の才能と負けん気の強さで若くして出世の階段を上り詰めましたが、そのどうにもならないコンプレックスを持て余して一喜一憂していた節があります。
中でもターナーを特にイラつかせたのが、同じく天才と呼ばれたジョン・コンスタブルでした。彼はターナーと同じく風景画を得意としましたが、それ以外は驚くほどに正反対の人物です。イケメンで裕福な家の出身、愛妻家で子沢山、加えて出世にそれほど興味がない・・・要はターナーが持っていなかったものをすべて兼ね備えていたのが、コンスタブルという男でした。

『コンスタブルの肖像』(1786年)ナショナルポートレートギャラリー

そんなライバルに対して、コンプレックスの強かったターナーがジェラシーを募らせないわけがありません。彼は出世後に「結婚している画家はダメだ。画家は才能をすべて絵画に注ぐべきである」と述べているが、これは若くして子沢山だったコンスタブルの存在を少なからず意識した上での言葉と考えられます。
二人のライバル関係を示すエピソードとしてもっとも有名なのは、1832年に開催されたロイヤルアカデミー展の一幕です。一般公開前に設けられた最終チェックの時間に、ターナーはコンスタブルの出展作品『ウォータールー橋の開通式(ホワイトホール階段からの眺め、1817618日』を目にして、その出来栄えの良さに危機感を覚えます。中でも彼を不安にさせたのが、画面中央に描かれた船体の色鮮やかさでした。

『ウォータールー橋の開通式(ホワイトホール階段からの眺め、1817年6月18日)』(The Opening of Waterloo Bridge seen from Whitehall Stairs, 18 June 1817)(1832年、油彩・キャンバス) ロンドン・テート・ブリテン

そこであろうことかターナーは自らの出展作『ユトレヒトドシティ64号艦船』の波間に、ド派手な赤い点を描き加えてしまいます。周囲の取り巻きが呆然とする中、彼は「ただのブイ(海上に浮かべる人工物。標識などで使う)だ」と悪びれもせず言い放ちました。

 

『ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号』(1832年)東京富士美術館

しかしこの赤いブイのアクセントが作品全体を引き締める効果をもたらし、結果的にターナーは展覧会の主役となりました。コンスタブルはこのライバルの強行について「ターナーはここにやってきて、銃をぶっ放していったよ」と称賛とも皮肉とも言えないコメントを残しています。

 

『ニスの日』ウィリアム・パロット 周囲が静止するのも聞かずに手直しをするターナー。背が低くゴツゴツした風貌をしている。

ちなみにターナーが直前まで手直しした事例は多いのですが、作品の雰囲気すら壊しかねないほどの加筆ということで、後々まで語り継がれる逸話となりました。

5.意外と商売上手だった

孤高の天才のようなイメージの強いターナーですが、意外に商売の上手い人間でもありました。若い頃から雑誌の挿絵の銅版画を描いたり、貴族の絵画コレクションの模写を行なったりと小まめにお金を稼いでいたようです。ただし絵画教室の講師だけは苦手で、ボソボソと聞き取れないような声で講義をしたり、ただただ自作の絵画の模写ばかりさせるなど、すこぶる評判は悪かったとか。
ターナーのビジネス感覚の良さを象徴するのが、1804年にオープンしたギャラリーでの振る舞いでしょう。ここは彼の私設ショールームとしての一面があり、客が直接訪問して絵画の注文を行っていました。

『ジョージ・ジョーンズターナーズギャラリーのインテリア』アシュモレアン博物館

こうした手法は当時珍しいものではありませんでしたが、ターナーは自ら店頭でタフな金額交渉を披露しては依頼主を驚かせていたようです。また彼は作品のサイズで金額換算をしたり、期日までの確実な納品を約束するなど、極めて現代的なビジネスを実施していました。
こうした交渉力や金銭面でのシビアな感覚は、父親の影響が大きかったようです。床屋の店主だった父ウィリアム・ターナーは商売熱心な働き者で、なおかつ客捌きが上手かったと言われます。
ターナーが交渉のうまさを象徴するものとして、晩年の作品寄贈のエピソードがあります。彼は自分の作品をイギリス国に全て寄贈することを提案し、その代わりにそれらを展示するための部屋を設けることを条件に挙げました。これによってターナーは自分の作品コレクションの管理を保証させた上、死後のギャラリーをタダで作らせる約束を取り付けたわけです。
現在もテート・ギャラリーには世界最大のターナーコレクションが保管されていますが、幸いにもターナーが死後も名声を保ち続けたことで、結果的にテート・ギャラリーともWin-Winの関係になったと言えるでしょう。

6.父親がいないとダメな人だった

5の項でも触れたように、ターナーと父ウィリアムは良好な関係にありました。特筆すべきは、2人が単なる父子としての結びつきを超えていたということです。感情の起伏が激しくコンプレックスの強かったターナーにとって、唯一と言っても良いほど心を許せる父親の存在は、画壇で孤軍奮闘する上で重要なメンターだったと考えられます。

ターナーによる父ウィリアムのスケッチ。ゴツゴツとした輪郭と鷲鼻、厚ぼったいまぶたが息子とよく似ている。

 

また1804年に開業したギャラリーの経営においても父の存在は不可欠でした。スケッチ旅行などで頻繁に店を空ける息子に代わって留守番したり、事務方仕事を一手に引き受けるなど、ウィリアムは信頼のおけるビジネスパートナーでもあったのです。
そんなわけでターナー父子は常に一緒でした。息子が未亡人サラ・ダンビーと内縁関係にあった際は、ウィリアムまで同居しています。ただしサラにも連れ子が4人もいたので、色々とオープンだったのかもしれませんが。
しかしあまりにも仲良し父子だと、別れの反動も大きくなります。ウィリアムが1829年に死去すると、ターナーは不幸のどん底へと陥り、うつ病を発症するほどの精神的不安に陥ってしまいました。

7.生涯独身だった

現代において生涯独身は珍しいことではなく、自らその道を選択する人は今後も増え続けるでしょう。


しかし18世紀のイギリスではそんなわけにもいきません。
ターナーは確かに「結婚している画家はダメだ。画家は才能をすべて絵画に注ぐべきである」と述べていますし、お世辞にも整った外見ではありませんでした。しかし少なくとも芸術アカデミーの会員や教授としての肩書きと、売れっ子画家として稼いだ多くの財力があり、縁談の勧めには事欠かなかったはずです。
ただ、女性が嫌いだったかといえばそうではありません。というわけで次の秘密。

8.でも未亡人とは子どもまでできていた

結婚は避けていたターナーですが、やることはしっかりやっています。
中でも未亡人が好みだったようで、10歳年上のサラ・ダンビーとは1800年ごろから約10年間、ソフィア・キャロライン・ブースとは1846年から亡くなるまで内縁関係にありました。またサラとの間には2人の実子を設けています。

ターナーによる裸婦のスケッチ。モデルはサラ・ダンビーと推測される。
ターナーによる裸婦のスケッチ。こちらはソフィア・ブースと推測される。

後に彼の自伝を執筆した作家のピーター・アクロイドは、ターナーについて「未亡人キラーだった」と述べており、二人の他にも付き合いを結んだ未亡人がいたことを示唆しています。
ではなぜ未亡人ばかりをパートナーに選ぶようになったのでしょうか?
ということで次の秘密。

9.母親が精神を病んでいた

ターナーにとってもっとも知られたくない秘密はこれかもしれません。
母メアリー(旧姓マーシャル)はターナーが幼少期から精神疾患を発症しており、父ウィリアムに対してたびたび暴走した感情をぶつけるなど家庭内は荒んだ状況にありました。さらに1783年、娘のメアリー・アンが亡くなり、母の精神は極限に達したと推察されます。その結果、ターナーは10歳にして母方の叔父ジョセフ・マーシャルの家に預けられました。

ターナーによる女性のスケッチ。母メアリーがモデルと考えられる。

 

この幼少期の記憶は、ターナーの人生に絶えず暗い影を落とすことになります。彼は上記のとおり感情の起伏が激しい性格をしていましたが、それが母親からの遺伝ではないかと疑い、いずれ自分も精神疾患を発症するのではないかという恐怖に苛まれ続けました。
またターナーは母親が精神を病んだのは結婚のせいではないかとも考えていました。その結果、未婚の女性と結婚したら病気になる可能性があると疑い、生涯独身を貫いたと思われます。一方で未亡人の女性は「結婚しても精神を病まなかったから付き合っても大丈夫」と考えていたらしく、サラ・ダンビーやソフィアと内縁関係を結んでいました。しかしターナーは終生彼女らと籍を入れていません。さらに近年の研究では、学生時代のターナーには同い年のエリザベス・ホワイトと親しくしていたこと、画家として自立できたら彼女にプロポーズしようとしていたことが明らかとなっています。しかしその直後にエリザベスが他の男性と婚約していたことを知り、大いに荒んで周囲の人間を心配させました。母から受け継いだ血に不安を持っていたのは確かでしょうが、どこか整合性の取れないようにも思えます。自身の考えに確証がなかったからなのか、それとも最初の失恋が結婚に不安を感じるきっかけになったのか、おそらく解明は難しいでしょう。
なお母メアリーについてはその素性や人となりが明らかになっており、実家のマーシャル家は肉屋や商店を営む裕福な家庭だったこと、父ウィリアムよりも10歳以上年上であったことが明らかになっています。ターナーについて初の伝記を執筆したジョージ・ウォルター・ソーンベリーの著書によれば、メアリーは自身で制御できないほど激しい気性の持ち主だったようです。一方でメアリーは息子が画家の道を歩むことに対して応援し、周囲の人間に対して彼の絵画について宣伝のように話し回っていた記録も残されています。

10.愛人とその子どもへの対応が酷い

もしターナー自身がもっとも知られたくなかった秘密が9であるなら、我々が知りたくなかった秘密はこれでしょうか。
彼には内縁の妻としてサラ・ダンビーとソフィア・キャロライン・ブース、またサラとの間の2人の娘がいました。
他にも愛人や婚外子がいた可能性もありますが、少なくとも素性の明らかになっている家族に対するターナーの対応は極めて冷淡です。
まずサラ・ダンビー、ソフィア・キャロライン・ブース、どちらとも籍を入れていません。またサラとの間に生まれた子ども–––エヴェリーナとジョージアナという娘がいたものの、認知することを拒んだ上、2人の結婚式などの出席を拒否するなど、父親らしいことは一切行わなかったと言われます。
さらにターナーは、愛人や娘たちに対して一切の金銭的な援助を行っていません。若くして成功を収めた巨匠としてはあまりにもお粗末で血も涙もない対応と言えるでしょう。
ただ入籍を拒んだ理由について、サラについては「彼女がカトリック教徒で宗派が違ったから」「前の夫の遺族年金がもらえなくなるから」、ソフィアについては「すでにターナーが高齢過ぎた」なども挙げられ、必ずしもターナーが個人的なこだわりを押し通した訳ではないと考えられます。
しかし入籍や認知などの法的な証明や金銭的援助を拒まれた彼女たちのその後は、正直言ってあまり恵まれたものではありません。
ソフィアはターナーの死後、彼のスケッチや私物を売却しながら余生を送っており、彼の知人や画家仲間から「金にがめつい女」として嫌われています。また連れ子のダニエルもターナーが国に寄贈しなかった作品を売却して4000ポンドの利益を得ていたようです。
一方、サラについてはかなり悲惨です。前夫のわずかな遺族年金とターナーのスケッチなどを売却してもかなり生活は苦しかったようで、最期は貧民用の共同墓地に葬られました。娘のジョージアナは若くして亡くなり、エヴェリーナだけは唯一ターナーの遺産の一部を受け取っています。ただし夫ジョセフ・デュプイが多額の負債を抱え、人生のほとんどをその返済に追われたようです。

 終わりに

いかがだったでしょうか?
天才と呼ばれたターナーですが、実際は人間的で泥臭い人物だったことがよくわかります。故郷イギリスではこうした彼のリアルな人物像がある程度認知されており、2014年に公開された映画『Mr.Turner(邦題:ターナー、光に愛を求めて)』(監督マイク・リー)では生々しい“人間ターナー”が描かれています。いずれ日本でもこのような彼のキャラクターがますます認められていくのではないでしょうか。
なおターナーの作品は712日より開催されている展覧会『テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ』(東京 国立新美術館)にて多数公開されています。ぜひここで紹介したターナーの影の部分と合わせて楽しんでいただければ幸いです。
【参考資料】『Life of J. M. W. TurnerGeorge Walter Thornbury(1861) 、『Turner』Peter Ackroyd著、Vintage Books 、『Turner』 Barry Venning著、Phaidon、David Meaden©British Library Board

展覧会紹介

『テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ』

『湖に沈む夕日』1840年頃 テートギャラリー、ロンドン Photo: Tate

会期2023年7月12日(水) ~ 2023年10月2日(月)
毎週火曜日休館

開館時間
10:00~18:00
※毎週金・土曜日は20:00まで
※入場は閉館の30分前まで

会場
国立新美術館 企画展示室2E
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2

主催
国立新美術館、テート美術館、日本経済新聞社、テレビ東京、BSテレビ東京、TBS、BS-TBS

協賛
ウェッジウッド、大林組、関彰商事、SOMPOホールディングス、ダイキン工業、DNP 大日本印刷、大和証券グループ、三井不動産、横河電機

協力
日本航空、フィナンシャル・タイムズ

後援
ブリティッシュ・カウンシル