2023.10.05
『オフィーリア』を描いた13人の画家たち【ミレーか、ミレー以外か】
「オフィーリア」は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』に登場する主人公ハムレットの恋人です。また、「オフィーリア」は同名の悲劇的な女性キャラクターを描いたジョン・エヴァレット・ミレーの有名な絵画のタイトルとしても知られています。
しかしオフィーリアを題材にした画家は、ミレーだけではありません。ここでは12人(+1)の画家が描いた知られざるオフィーリアたちをご紹介して参ります。
Contents
- 1 シェイクスピアの『ハムレット』におけるオフィーリア
- 2 ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』(1852年)
- 3 ドラクロワの『オフィーリア』(1838年)
- 4 アーサー・ヒューズの『オフィーリア』(1852年)
- 5 ディクシーの『オフィーリア』(1873年)
- 6 ルパージュの『オフィーリア』(1881年)
- 7 カバネルの『オフィーリア』(1883年)
- 8 ジョルジュ・クレランの『オフィーリア』(19世紀末?)
- 9 マコフスキーの『オフィーリア』(19世紀末?)
- 10 フランシス・マクドナルドの『オフィーリア』(1898年)
- 11 ウォーターハウスの『オフィーリア』(1898年)
- 12 ジョアン・ブリュルの『オフィーリア』(1901年)
- 13 ルドンの『オフィーリア』(1901年)
- 14 ドラローシュの『若き殉教者の娘』(1855年)
- 15 最後に
- 16 あわせて読みたい
シェイクスピアの『ハムレット』におけるオフィーリア
その前に原点である『ハムレット』と、作中に登場するオフィーリアについてもう少し詳細にご紹介しましょう。
戯曲『ハムレット』は、1601年ごろに発表された劇作家ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) – 1616年4月23日)の代表作の一つであり、物語は「デンマークの王子ハムレットが、父王を毒殺して王位に就き母を妃とした叔父への復讐劇」です。悲劇を得意としたシェイクスピアの作品の中でも『四大悲劇』に数えられる傑作で、その中でも最初に発表された作品であり、また最長の作品でもあります。
オフィーリアは、シェイクスピアの『ハムレット』で、主人公ハムレットの恋人として登場します。彼女はポローニウスの娘で、ハムレットとの恋愛関係が物語の要素として重要な役割を果たします。しかし、物語が進むにつれてオフィーリアは悲劇的な運命に翻弄されていきます。
オフィーリアは、ハムレットが父王の死や母王の再婚に対する怒りと混乱に取り憑かれる様子を目撃します。しかしこれが彼女の悲劇の始まりでした。彼女は愛するハムレットが心の闇に包まれていく様子に苦しむ一方で、父ポローニウスや王とクイーンの陰謀に巻き込まれていきます。その結果、オフィーリアは精神的な病に苦しみ、最終的に自身の命を絶ってしまう運命をたどるのです。
オフィーリアの死は、彼女が周囲の出来事に翻弄され、愛する人々の運命に翻弄される無力さを象徴しています。彼女の悲劇的な運命は、『ハムレット』の中でも感情的な高揚を引き起こす要因の一つとなっています。
『ハムレット』は、戯曲の人気タイトルとして世界中で公演され、同時にオフィーリアの名前も悲劇の女性の代名詞として広く認知されるようになりました。
そのため演劇界としての流行に伴い、美術の世界でもオフィーリアを多くの画家がモチーフに採用します。とくに19世紀は、当時勢いのあったラファエル前派の流れとマッチして、名作が多数誕生することとなったのです。
ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画『オフィーリア』(1852年)
ジョン・エヴァレット・ミレーは、19世紀のイギリスの画家であり、プレラファエライト運動の一員として知られています。彼はシェイクスピアの『ハムレット』に登場するオフィーリアの悲劇的な瞬間を描いた有名な絵画を制作しました。
この絵画『オフィーリア』は、オフィーリアが水面に浮かぶ様子を美しく、しかし悲劇的な雰囲気で描写しています。ミレーは細部まで緻密な描写でオフィーリアの髪や衣服、水の流れを表現し、彼女の死の瞬間を静かに捉えています。この作品は、プレラファエライト運動の美学とともに、オフィーリアの悲劇を美しい形で再現したものとして高く評価されています。
ちなみにミレーは本作を描くため、モデルのエリザベス・シダルに真水を張った浴槽の中で何時間もポージングを取らせています。しかも季節は真冬。おかげでエリザベスは肺炎を患う羽目になりました。一歩間違えば死んでいたかもしれません。
ドラクロワの『オフィーリア』(1838年)
ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)は19世紀フランスの画家で、ロマン主義運動の代表的な人物の一人です。彼はその感情的な作風やダイナミックな筆致、鮮やかな色彩、歴史的な題材の描写で知られています。とくにドラクロワの扱う題材は実際の事件、特に直近に発生した問題が多かったため、フランス美術界に大きな影響を与えました。
そんなドラクロワですが、密かにオフィーリアを描いています。
ストーリーでは、柳の木から小枝が折れたために川へ転落死するのですが、本作では川を流されまいと腕一本で枝にしがみついているように見えます。
ちょっとパワフルすぎやしませんか。
アーサー・ヒューズの『オフィーリア』(1852年)
アーサー・ヒューズ(Arthur Hughes, 1831年1月27日 – 1915年12月23日)は19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したイギリスの画家・イラストレーターです。
愛や美をテーマとする作品を多く手がけており、その作風はラファエル前派と混同されることが少なくありません。確かにヒューズはラファエル前派のメンバーであるエヴァレット・ミレーの友人で、彼の作品から影響を受けていたと考えられます。しかし正式なメンバーとしては迎え入れられたことが無く、非常に曖昧な関係性にあったようです。
そんなヒューズの描いた『オフィーリア』ですが、なんとミレーの作品と全く同年に制作され、同じロイヤルアカデミーのサロンに出品されています。ヒューズのバージョンは転落する前ですが、見事に題材がかぶってしまったわけです。しかしこの偶然の一致がきっかけで2人は友人関係になったと言われ、それぞれに画家として成功を収めることとなりました。
ディクシーの『オフィーリア』(1873年)
トマス・フランシス・ディクシー(Thomas Francis Dicksee, 1819年-1895年)は、19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したイギリスの画家です。
兄のジョン・ロバート・ディクシーも画家であり、子どものサー・フランシス・ディクシーとマーガレットも同様に画家となりました。
ディクシーは肖像画をはじめとする写実的な人物画を得意とし、中でもシェイクスピアに登場するヒロインたちをモチーフとする作品で画家としての地位を確立しています。
オフィーリアも複数手がけており、今回ご紹介しているのは1873年制作のバージョンです。水辺で木の根元に腰掛ける様子から、転落死する直前の姿と考えられます。
若く美しいオフィーリアと森林の幻想的な描写の組み合わせは、ラファエル前派や耽美主義の影響が色濃く、当時のイギリス絵画らしい一作と言えるでしょう。
ルパージュの『オフィーリア』(1881年)
ジュール・バスティアン=ルパージュ(Jules Bastien-Lepage、1848年– 1884年)は、19世紀後半に活躍したフランスの画家です。
フランス北東地方の農家の生まれでしたが、努力の末に国立高等美術学校に合格して画才を磨きました。1870年の普仏戦争での従軍で負傷したのを機に故郷に戻りますが、農村風景を題材にし始めたことでその才能が徐々に開花。1870年代後半から写実主義表現の画家として評価を高めました。しかし1884年、がんを患って36歳の若さで亡くなります。
ルパージュの『オフィーリア』は、装飾品がほとんど省かれており、顔立ちも素朴で、どこか地味な印象です。これは写実主義の特徴とも言える労働者階級や農村風景をモチーフとしていた影響と考えられます。ただし彼が舞台演劇に疎かったというわけではなく、1879年には大人気女優のサラ・ベルナールの肖像画を手がけています。演劇的な題材であるオフィーリアを自身の写実主義的な世界観で表現したかったのかもしれません。
カバネルの『オフィーリア』(1883年)
アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823年9月28日 – 1889年1月23日)は、19世紀に活躍したフランスの画家です。
当時のロイヤルアカデミーの中心人物として絶大な影響を持ち、当時フランス最高の画家として称賛を集めました。カバネルの描く神話的な造形と完璧なフォルムの作品はまさにアカデミック絵画の理想をすべて詰め込んだ美の結晶と言えるでしょう。一方でエドゥアール・マネや印象派の絵画のサロン出品を拒否するなどの事件を起こすなど、強硬な一面も持ち合わせていました。
カバネルの『オフィーリア』は、彼の晩年の傑作の一つに数えられます。ミレーと同じく川に転落した様子を描いていますが、その表情は瀕死というより恍惚という印象です。また衣服も体も濡れている様子がありません。カバネルにとっては、リアリズム以上にアカデミーの美学に則って美を追求することの方が重要だったと考えられます。こうした特徴は、同じくカバネルの傑作として知られる『ヴィーナスの誕生』にも共通するものと言えるでしょう。
ジョルジュ・クレランの『オフィーリア』(19世紀末?)
ジョルジュ・クレラン(Georges Jules Victor Clairin、1843年9月11日 – 1919年9月2日)は19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家です。
18-19世紀にかけて流行したオリエンタリズム(東方趣味)の傾向を強く持ち、画家仲間とモロッコやエジプトを旅して創作のヒントとしました。
また舞台女優サラ・ベルナールをモデルにした作品も多数手がけるなど、舞台関係の絵も多く残しています。
クレランの描いた『オフィーリア』も、舞台女優が衣装を着た様子を描いた作品となっています。そのため服装が装飾的でオフィーリアの顔つきも悲劇的な表情には見えません。
マコフスキーの『オフィーリア』(19世紀末?)
コンスタンチン・エゴーロヴィチ・マコフスキー(Konstantin Yegorovich Makovsky, 1839年7月2日(ユリウス暦6月20日) – 1915年9月30日(ユリウス暦9月17日))は、19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したロシアの画家です。
移動派と呼ばれるリアリズム美術運動のグループに属して活躍、次第にアカデミーの理想を表現した作風へと傾倒していきました。一方で印象派の先駆者と見做されることもあります。
マコフスキーも『オフィーリア』を複数手がけており、アカデミーの理想に則った作品となっています。
描かれたのは19世紀末から20世紀初頭と考えられますが、この時点で『ハムレット』がイギリスから遠く離れたロシアの地でもアカデミックな題材として定着していたと考えるとなかなか興味深いですね。
フランシス・マクドナルドの『オフィーリア』(1898年)
フランシス・マクドナルド・マックネア(Frances Macdonald MacNair、1873年8月24日 – 1921年12月12日)は、スコットランドの画家、工芸作家です。
グラスゴー育ちで姉のマーガレット・マクドナルド・マッキントッシュと共に創作活動を展開し、グラスゴー派やアーツ・アンド・クラフツ運動に参加して活躍しました。夫のハーバードが彼女の死後に作品の多くを処分したため知名度は低いものの、神秘主義、象徴主義、キリスト教、ケルト神話などをミックスした独自の世界観で近年評価を高めています。
フランシス・マクドナルドの『オフィーリア』はかなりデフォルメされた二次元的な作品ですが、これはウィリアム・ブレイクやオーブリー・ビアズリーらの影響の表れと考えられます。
なおフランシスは当時流行していたファム・ファタル、いわゆる悪女とは一線を画した女性像を描き続けており、オフィーリアは彼女にとって非常に適したモチーフだったと言えるでしょう。
ウォーターハウスの『オフィーリア』(1898年)
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse, 1849年4月6日 – 1917年2月10日)は、イギリスの画家です。
初期はアカデミック様式の作品を制作していましたが、次第にラファエル前派のテーマやスタイルに傾倒していきました。中でも『シャルロットの女』や『オフィーリア』など女性をモチーフにした作品を好み、なぜか水辺のロケーションが多かったことで知られます。
上記のとおりウォーターハウスは『オフィーリア』を好んで描いており、本作はその最初の作品です。草むらに身を横たえ、髪にはデイジーの花が絡まり、膝にはそれまで集めていた草花が散らばっているなど、錯乱したかのように見えます。後方の柳の木は、この後にオフィーリアが転落死する未来を暗示しており、彼女をいっそう悲劇的なものに演出しているのです。
ジョアン・ブリュルの『オフィーリア』(1901年)
ジョアン・ブリュル(Joan Brull i Vinyoles、1863年1月25日 – 1912年2月3日)は、19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したスペインの画家です。
バルセロナ出身で地元の美術学校を卒業したのち渡仏、パリの名門美術学校アカデミー・コラロッシで学びました。初期は写実的な作風でしたが、次第に象徴主義的なスタイルへと傾倒していきます。
ジョアン・ブリュルの『オフィーリア』はキャリア中期の作品であり、彼の画風が象徴主義へと本格的に舵を切った頃に描かれました。他の画家が描いたものと比べると表情は明るく、題名がなければオフィーリアだと気づかない人も多いかもしれません。ただし背景の暗い水辺は彼女の迎える悲劇的な結末を象徴しているものと言えるでしょう。
ルドンの『オフィーリア』(1901年)
オディロン・ルドン(Odilon Redon、1840年4月20日– 1916年7月6日)は、19-20世紀初期に活動したフランスの画家です。
象徴主義にカテゴライズされることが多いですが、自分が見た夢の中の世界を描き出すルドンの作風は、具象画の多い他の象徴主義の画家たちと明らかに一線を画しており、ある意味で唯一無二の様式を持った画家と言えるでしょう。キャリア前半では内向的な性格や不遇な生い立ちを反映するように鬱々としたモノクロの作品が多かったものの、次男の誕生・成長と共に明るくカラフルな作風へと変わり、評価を高めていきました。
ルドンの『オフィーリア』は、オフィーリアが水面に落ちて命を落とした場面を描いています。水面と摘んでいた花、オフィーリア自身を象徴的に配置していますが、色彩の明るさや柔らかな描写のおかげで悲惨な印象はそれほど強くありません。当時のルドンはすでにカラフルな色彩へと転換しており、また聖ヨハネなどアカデミックなモチーフにも取り組んでいました。
ドラローシュの『若き殉教者の娘』(1855年)
最初にお断りしておきますが、この絵だけは『オフィーリア』をモデルにした作品ではありません。
ただしミレイの『オフィーリア』を検索すると、必ずと言ってよいほど『若き殉教者の娘』が引っ掛かってきます。
何より、日本人好みのとても素晴らしい絵なので、あえてご紹介したいと思います。
ポール・ドラローシュ(フランス語: Paul Delaroche, 1797年7月17日 – 1856年11月4日)は、19世紀フランスの画家です。
パリ生まれで1822年にサロンに初出品し、1824年の出品作『ジャンヌ・ダルク』などで注目を集めると、1832年には35歳の若さで美術アカデミー会員に選出されるなど、生粋のエリート画家として大きな影響力を持ちました。同時代にはドラクロワやドミニク・アングルなどの世界的な巨匠もいましたが、国際的にはドラローシュの方が高い評価を得ていたとも言われます。一般にはロマン派に含まれるものの、堅牢かつ緻密な写実描写を得意とし、歴史画を好むなど、実質的にはアカデミックな画家でした。
『若き殉教者の娘』は、ドラローシュの遺作です。水面に浮かぶ絶命した美女の姿がミレイの『オフィーリア』と酷似していることから、“キリスト教のオフィーリア”とも呼ばれます。ミレイ版が1851年の作品で、一方の本作が1855年ですから、影響を受けていたとしても不思議ではありません。
ただし本作の主題はローマ皇帝ディオクレティアヌスの支配下でのキリスト教徒の殉教であり、縛られた両手の上に浮かぶ光輪は彼女が殉教者であることを明確に示しています。柔らかな光の陰影が画面全体を包み込んでおり、精緻で重厚感のある描写を得意としたそれまでのドラローシュとは明らかに作風が異なることも特徴と言えるでしょう。
実は1845年に最愛の妻ルイーズ・ヴェルネが亡くなっており、その悲しみと絶望が彼にこのような詩的な表現を描かせたのではないかと考えられます。
最後に
いかがだったでしょうか。
オフィーリアをモチーフにした作品は『ハムレット』が発表されて以降、とくに文学や舞台から影響を大きく受けたラファエル前派を中心に多く描かれました。彼らの系譜を汲む象徴主義の時代が表現主義へと移行すると共にオフィーリア関連の作品も減っていったため、制作年代もおよそ半世紀の間に集中しています。この期間の中でも変化や派生が生じており、中でもオペラをはじめとする舞台芸術の発展、ミレーの作品の登場は大きな影響をもたらしたと考えられます。
現代ではエヴァレット・ミレーのイメージが強すぎるものの、ぜひ他の画家たちの作品も知っていただければと思います。『オフィーリア』作品は、不思議とルパージュやフランシス・マクドナルド、ブリュルなど日本で知られざる優れた画家が多く手がけているんですよね。これを機に彼らの名前を知っていただければ幸いです。