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2026.07.24

【なぜ滞在?なぜ脱獄?】知っておきたいカラヴァッジョとマルタ

はじめに

バロック絵画の天才として知られるイタリアの画家カラヴァッジョ。その一方で彼の人生は血と暴力に彩られており、さながら北野映画のようです。

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』。実際カラヴァッジョはこの手の作品に名画が多い。

そんなイタリアのアウトレイジ男カラヴァッジョですが、晩年に地中海の小国マルタに滞在しています。この約一年間で、カラヴァッジョはマルタ騎士団の一員となり、代表作《洗礼者聖ヨハネの斬首》を完成させる一方、乱闘事件を起こして投獄され、さらに難攻不落の要塞から脱獄まで果たしています。
またマルタという土地にとっても、天才画家の滞在は大きな影響をもたらしました。わずかな期間でありながらも彼到来以前と以後で美術の流れは変わり、その系譜は現代へと続いていきます。

本稿では、近年の調査によって新たに判明してきた研究結果を交えつつ、カラヴァッジョとマルタの関係を振り返ります。

カラヴァッジョとは

オッタヴィオ・レオーニによるカラヴァッジョの肖像(1621年頃)

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571–1610)は、イタリア・ミラノ出身の画家で、主にバロック初期の画家として活躍しました。幼くして父や母、祖父母など多くの家族を亡くすなど苦しい少年期を過ごした後、ローマの画家ジュゼッペ・チェーザリの元で画家として開花。『病めるバッカス』などの傑作を完成させ、フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿などの有力なパトロンを得ることで新進気鋭の画家として台頭していきます。

カラヴァッジョの作風の特徴は、強烈な明暗表現(キアロスクーロ)や、市井の人々をモデルにした写実的な人物像にあります。それまでの理想化された宗教画とは一線を画した彼の作品は間違いなくバロック時代の象徴となりました。

その一方でカラヴァッジョのは剣の携帯、賭博、暴力事件など、トラブルを絶えず引き起こします。1606年にはラヌッチョ・トマッソーニを殺害し、ローマから逃亡しました。一説には決闘だったとも言われますが、逃亡中にローマ教皇領内での逮捕・死刑という判決が下り、完全におたずね者となってしまいました。さらにラヌッチョの父ルカントニオはローマの裏社会で暗躍する武闘派組織のボスだったため、逃げるより他になかったわけです。

しかしこのような犯罪と近年の伝記研究では、カラヴァッジョの別の側面も指摘されています。

バロック美術の研究者ヘレン・ラングドンは、カラヴァッジョは突然の名声にうまく適応できなかった人物として描き、また美術史家アンドリュー・グレアム=ディクソンは、逃亡中も有力者との関係を築き、恩赦への道筋を計画するなど、高い判断力を持っていた点を重視しています。

暴力性と巧みな処世術。
この二面性が、近年のカラヴァッジョ像となりつつあるのです。

なぜマルタへ渡ったのか

ローマを追われたカラヴァッジョは、1606年の夏にはナポリへ脱出し、再び画家として成功を収めます。しかしローマ教皇領で下った死刑判決を免除してもらうためには、ローマ教皇に通じる後ろ盾が必要でした(当時のナポリはスペイン領でした)。

そこで1607年が後半に差し掛かった頃、カラヴァッジョは突如としてマルタ島へ渡航します。
この件について明確な記述はないものの、マルタ島を本拠地としていた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)が目的だったと考えられます。
当時の騎士団は、宗教改革の煽りを受けていたものの、ローマ教皇領のみならず、ヨーロッパでも屈指の権威を持つ組織でした。騎士となることは社会的名誉を意味し、教皇恩赦への足がかりにもなり得たでしょう。
実際、カラヴァッジョは当時の騎士団総長アロフ・ド・ヴィニャクールの保護を受け、1608年には騎士に叙任されます。

つまり逃亡生活の中継地ではなく、社会的地位の回復を目指した行動だったと見る方が自然というわけですね。

『アロフ・ド・ヴィニャクールと小姓の肖像』

マルタでの制作活動

マルタ時代の代表作は、《洗礼者聖ヨハネの斬首》(1608年)です。

『洗礼者聖ヨハネの斬首』(1608年)聖ヨハネ准司教座聖堂(マルタ、バレッタ)

この作品は縦約3.6メートル、横約5.2メートルにも及ぶカラヴァッジョ最大級の作品であり、現在も聖ヨハネ大聖堂に所蔵されています。
また、現存する作品の中で、画家自身の署名が確認できる唯一の作品としても知られています。

もっとも、その署名は画面の片隅ではありません。洗礼者の首から流れ出た血の中に、「f. Michelangelo」と記されています。
この署名については長く議論が続いています。
f」は frater(修道士・騎士団員)を意味するとする説が一般的ですが、その意味づけについては研究者の見解が分かれています。

David M. Stoneは、騎士団という注文主との関係を踏まえて読む必要があると論じています。一方で、「自らの罪を血によって告白した」といった説明も広く知られていますが、それを裏づける一次史料は確認されていません。

作品そのものから読み取れることと、後世の解釈は区別して考える必要があるでしょう。

突然の転落

こうして騎士となったカラヴァッジョでしたが、その生活は長く続きませんでした。

1608年8月、騎士団員との暴力事件に関与し、要塞へ収監されます。
かつては女性問題や決闘など様々な説が唱えられていました。
しかし2002年、マルタ大学のKeith Sciberrasは騎士団文書を再調査し、複数の騎士が関与した乱闘事件だった可能性を示しました。
それまで語られてきた多くの逸話には、史料上の裏付けが確認できなかったためです。

ただし、乱闘が起きた理由は依然として解明が進まず、研究者の間でも大きな謎となっています。

脱獄という空白

さらに不可解なのが、その後の脱獄です。
収監先と考えられているフォート・セント・アンジェロは、海に囲まれた堅牢な要塞でした。
内部の牢獄は、主にマルタ騎士団の規律を犯した重罪の団員が投獄されたと言われ、特に「鳥籠」と呼ばれる部屋は脱獄不可の恐怖の牢獄として恐れられました。

難攻不落のフォート・セント・アンジェロ。内部の牢獄「鳥籠」は、脱獄不可と言われた。

それにもかかわらず、カラヴァッジョは姿を消し、シチリアへ渡っています。

誰が船を手配したのか。

要塞をどう抜けたのか。

この脱獄に関してカラヴァッジョ本人は何も書き残しておらず、騎士団の記録にも詳細はありません。
Sciberras
は、外部の協力があった可能性は高いとしながらも、その人物を特定できる史料は存在しないと述べています。

現在でも、この脱獄はカラヴァッジョ研究における最大の空白の一つです。

マルタにカラヴァッジョが遺したもの

結局、カラヴァッジョのマルタ滞在は約一年でした。
しかし、この短い期間にカラヴァッジョは騎士となり、大作を完成させ、収監され、脱獄し、騎士団から除名されています。映画の脚本としてもリアリティに欠けますね。

聖ヨハネ大聖堂のシンボル『洗礼者聖ヨハネの斬首』

一方でマルタは実に多くのレガシーを享受することになりました。
《洗礼者聖ヨハネの斬首》は現在も聖ヨハネ大聖堂最大の見どころであり、島の美術史を語るうえで欠かせない作品となっています。
また地元の若い画家たちの多くはカラヴァッジョの影響を受け、一方向からの強烈な光や陰影などを積極的に取り入れるようになりました。彼らはカラヴァジェスキと呼ばれ、以降のマルタ芸術史のターニングポイントになっていきます。
他にも、謎多きカラヴァッジョの研究が進む上で、マルタの存在が大きくなった結果、西洋美術史の研究者がマルタ美術自体を深く知るきっかけになったことも、極めて重要な出来事と言えるでしょう。

最後に

近年の研究は、カラヴァッジョを「破天荒な天才」という一つの言葉で説明することの難しさを示しています。

暴力事件の記録は確かに残っていますが、それと同時に、逃亡中でありながら有力者の信頼を得て騎士となったことも事実です。

その両面をどのように理解するか。
それは現在も続くカラヴァッジョ研究の大きなテーマとなっています。

参考文献

  • Helen Langdon, Caravaggio: A Life (1998)
  • Andrew Graham-Dixon, Caravaggio: A Life Sacred and Profane (2010)
  • Keith Sciberras, Frater Michael Angelus in Tumultu: The Cause of Caravaggio’s Imprisonment in Malta (2002)
  • David M. Stone, カラヴァッジョのマルタ時代および《洗礼者聖ヨハネの斬首》に関する諸論文
  • Sybille Ebert-Schifferer, Caravaggio: The Artist and His Work (2012)