
2025.03.16
ドイツ印象派とは【パリを知らない印象派】
2024年に設立から150年の節目を迎えた印象派ですが、今年も大型の企画展が開催を予定しています。しかしそのほぼ全てがフランス人もしくはパリにいた芸術家にしかスポットライトを当てていないことをご存知でしょうか?
しかし西洋美術史を振り返ると、印象派は決してフランスに限ったものではなく、19世紀末にヨーロッパ各地へと大きな広がりを見せていました
今回は、特にドイツにおける印象派に注目してご紹介いたします。
印象派運動の展開
そもそも印象派運動とは、クロード・モネやルノワールら19世紀後期のフランスの若手画家を中心に起こった芸術運動です。
肉眼に映る一瞬の光や動きを表現すべく、屋外での創作や筆触分割など、それまでの絵画の規範でありえなかったスタイルや技術を取り入れ、画壇に大きな変革をもたらしました。
彼らに影響を受けた近隣の国々の画家たちはこぞって自国で印象派のスタイルを実践していったのですが、もちろんドイツも例外ではありません。ミュンヘンやベルリンの若い芸術家たちは印象派のスタイルを目指し、アカデミックな旧体制に挑んでいったのです。

vlnr Bildhauer Fritz Klimsch, Bildhauer August Gaul, Maler Walter Leistikow, Maler Hans Baluschek, Kunsthändler Paul Cassirer, Maler Max Slevogt, (sitzend), Maler George Mosson (stehend), Bildhauer Max Kruse, Maler Max Liebermann (sitzend), Maler Emil Rudolf Weiss, Maler Lovis Corinth. 4717-08
ドイツ印象派の特徴
とはいえ、ドイツの印象派には、フランスの本家にはない独自の特徴や背景がありました。
- 明るくない
なんだか印象派の大前提をぶち壊してしまいそうな話ですが、事実です。
ドイツ印象派にカテゴリ分けされている画家たちの作品を見てみると、太陽の光に乏しく、空の多くを雲が覆い隠している作品が多いことに気がつくでしょう。晴天の作品も少なからずありますが、モネやシスレーらが追い求めた、抜けるような輝き、複雑に色彩が入り混じる一瞬の光の揺らめき、といったような表現はほとんど見られません。
では彼らはどこで学んだのでしょうか? 例えばドイツ印象派の代表格の1人に挙げられるマックス・リーバーマンは、1872年にフランスでバルビゾン派(自然主義的を重んじ、農村などで市井の人々を描いた画家たち)に影響を受けた後、1874年にオランダでハーグ派(バルビゾン派に影響を受けたオランダ画家たちの芸術運動。灰色がかった悪天の風景画が多い)に学んだ後、主にベルリンで制作に取り組んでいます。またシュバーヴェン派と呼ばれるドイツ印象派の一派で活躍したオットー・ライニガーは、1883年から1888年にイタリアで絵画修行した後、ドイツのシュトゥットガルトで人生のほとんどを過ごしました。


しかし勘がいい人なら、ここでおかしなことに気がつくのではないでしょうか。というわけで次。
- フランスの印象派と接点が無い
そんなバカなと思われる方も多いでしょうが、事実、ドイツ印象派の画家たちはフランス印象派と接した記録は残されていません。彼らは揃ってフランス印象派のメンバーと交流らしい交流を持っておらず、印象派の習得にあたっては、オランダやイタリアなど周辺国で学んだり、ドイツ国内に留まって仲間同士で研究していました。
このように画家たちが遠回りな交流をせざるを得なかったのは、ひとえにドイツとフランスの冷え切った関係性の影響に他なりません。実際、この時期の2国間の交流は最悪と呼ぶに相応しい状態で、とくに1870年に勃発した普仏戦争はその後も深い遺恨を残すこととなりました。芸術界でも、モネは戦火を逃れてロンドンに移ったり、ルノワールは出兵して赤痢に感染した他、2人が懇意にしていた画家仲間のフレデリック・バジールを戦死で失うなど、多大な影響を受けています。
このような背景から、ドイツの画家たちは直接フランスで印象派グループから学ぶ機会を得ることは不可能だったと言えるでしょう。しかしその迂回の結果、リーバーマンはバルビゾン派やハーグ派の自然主義的な画風を印象派の手法と合わせることで、自身の個性を確立することができました。ライニガーなど国内に留まった画家たちも限られた情報の中から独自の解釈をすることで、印象派の模倣で終わらずに済んだとも言えるでしょう。


- 都市風景が多い
フランスの印象派と言えば、やはり陽光を求めて外に飛び出したということもあり、モチーフには自然豊かな風景を好んで選んでいました(ドガは別ですが)。ところがドイツ印象派では、むしろ都会の風景が多く選ばれているのです。
これは19世紀末のドイツが産業革命の真っ只中にあった影響で、彼らが拠点を置いたベルリンやシュトゥットガルトなどで都市化が進んだ結果と考えられます。もちろんフランス印象派でもルノワールやピサロらは時代の変遷と共に都会風景を描いているものの、都市そのものが主役ではなかったり(ルノワール)、または病気などやむを得ない事情によるものでした(ピサロ)。
一方のドイツ印象派では、むしろ都市そのものが主役であり、太陽のような自然光以外にも街灯などの人工的な光が作品中に重要な役割を果たしていました。1912年に発刊された美術誌『Kunst und Künstler』でも、ドイツ印象派の画家について「新しい絵画様式を理解し、都会の知的な市民として描くことを望む画家たちがいる」とし、彼らの多くが自然よりも都会に生きたことを示しています。

ドイツ印象派の代表的な画家たち
① マックス・リーバーマン(Max Liebermann, 1847-1935)
- ドイツ印象派を代表する画家であり、ベルリン分離派のリーダー。
- 初期は農民や労働者を描く写実主義的な作風だったが、後に明るい色彩と光の表現に重点を置いた印象派的作風へと変化。
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マックス・リーバーマン『芝生の上での漂白作業』(1882-1883) 動きのある光を取り入れながら労働者を描くことが多かった。
②オットー・ライニガー
- ドイツ印象派、特にシュツットガルトで起こった「シュヴァービッシェン印象派(Schwäbischen Impressionismus)」の中心的存在。
- 後にミュンヘン分離派に加わるなど、ドイツ表現主義との橋渡しにも貢献した。
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オットー・ライニガー『夏の風景』
② ロヴィス・コリント(Lovis Corinth, 1858-1925)
- 印象派と表現主義の橋渡し的存在。女性の芸術教育にも貢献した。
- 初期は印象派的な筆致を用いたが、後に力強い色彩とダイナミックな筆致が特徴的な作風へ移行。晩年は表現主義に取り組むなど、常に時代を切り拓き続けた。
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ロヴィス・コリント『イザールのシェフトラーンの肉屋』キャリア前半は肉屋と屠殺を積極的に描いた。
③ マックス・スレーフォークト(Max Slevogt, 1868-1932)
- ドイツ南部を拠点に活動し、明るい色彩と軽快な筆致が特徴。
- 印象派的な風景画や舞台の情景を多く描いた。
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マックス・スレーフォークト『シャンパンの歌』
④ レッサー・ウリィ(Max Slevogt, 1868-1932)
- ヨーロッパ各地を巡った後、マックス・リーバーマンに見出された。
- 都会の夜の風景が人気で、日本でも大きな人気を博した。
- ユダヤ系の出身で、晩年は旧約聖書をモチーフとした作品に取り組んだ。
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レッサー・ユリイ『カフェにて(夜のベルリン)』とにかく夜の街角を描きまくった画家ユリイ。あまりにも多く描きすぎたせいか、評価が高まらなかったとも言われる。
ドイツ印象派の衰退
ドイツ印象派は、第一次世界大戦(1914-1918)を境に急速に衰退しました。その理由には以下のような要因が挙げられます。
①表現主義の台頭:
ドイツ印象派が本格的に流行したのは、フランス印象派のメンバーの大半がすでに退いた後のことで、すでにその頃にはポスト印象派や新印象派が流行していました。つまりドイツでは、印象派を推し進める一方で新時代の芸術運動の影響を受けた画家たちが早くも活動を始めていたのです。
その結果、20世紀初頭には「ブリュッケ(Die Brücke)」や「青騎士(Der Blaue Reiter)」などのグループが登場し、印象派よりも感情表現を重視する表現主義が主流となりました。
②政治・社会の変化:
ドイツは普仏戦争後も第一次世界大戦、さらには第二次世界大戦へと短いスパンで大きな戦争を起こしていたため、一般市民は社会不安を抱えていました。結果、印象派のような穏やかで美しい風景画よりも、より激しく内面を表現するスタイルが求められるようになっていきました。
③ナチス政権による弾圧:
1930年代にナチス政権が台頭すると、印象派を含む近代美術は「退廃芸術(Entartete Kunst)」として弾圧を受けました。メンバーの多くは亡くなっていたり印象派から脱却していたものの、作品が没収や処分の対象となり、リーバーマンら生き残りの画家たちも活動を制限されました。この背景には独裁者ヒトラーが元々画家志望だったほどの芸術好きが少なからず影響を及ぼしており、彼が好んだ新古典主義やルネサンスとはかけ離れた印象派のスタイルを嫌ったことは想像に難くありません。
後の芸術家への影響
ドイツ印象派の活動は実質的に1880年代から1920年代初頭までに限定され、さらに20世紀に入ると表現主義などの他の運動がすでに始まっていたことから、純粋に印象派がドイツの芸術界の頂点にいた時期は極めて短いと言えるでしょう。
しかし彼らが中心となって結成されたベルリン分離派からは、ドイツ表現主義が発展するきっかけを作った新分離派が生まれており、カンディンスキーや青騎士など20世紀の芸術を牽引する画家たちが世に輩出されるきっかけとなりました。