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2024.04.12

知っておきたいスペインを代表する31人の芸術家  

今回は「知っておきたいスペインを代表する31人の芸術家」をお届けいたします。

スペインは古来より優れた建築家、画家、彫刻家、写真家の発祥の地であり、これは独自の創造的精神と、ヨーロッパのみならず中東アラブやアフリカなど周辺各国の文化や芸術運動がイベリア半島を通過した影響によるものです。
とくに17世紀のスペイン黄金時代は多くの優れた芸術家が輩出され、後世まで続くスペイン芸術のアイデンティティが確立されることとなりました。
また19世紀末から20世紀にかけてはキュビズムやシュルレアリスムなど世界的な芸術運動で存在感を示し、現代アートのトレンドへと結びついています。

本記事ではそんな独自性の強いスペインの著名な芸術家たちを一挙ご紹介してまいります。

 

Contents

ジャウマ・ファレー・バッサ(Jaume Ferrer Bassa1285-1348

ジャウマ・ファレー・バッサの胸像(バルセロナ)

ジャウマ・ファレー・バッサ(Jaume Ferrer Bassa)は、13-14世紀に活躍したスペインの画家。かつてイベリア半島にあったアラゴン連合王国の宮廷に従事していた。

バッサの名前が初めて歴史上に登場するのは1324年のことで、シッチェスの礼拝堂にフレスコ画を描くよう依頼を受けている。バルセロナの大聖堂の近くに大規模な工房を構え、アラゴン王アルフォンソ4世やその息子のペドロ4世らのために働いていた。それ以前のことは不明だが、かなり奔放で女性問題などを抱えていたと考えられる。フレスコ画以外にも祭壇画や写本の細密画、彫刻など多岐にわたる仕事を展開していた。息子のアルナウも画家として活躍したが、1348年のペスト流行時に父子とも病死した。

バッサが広く人気を得た背景に、彼が14世紀イタリアで流行していたフェレンツェやシエナの表現や技法、とくにジョット(フィレンツェの画家)のスタイルを取り入れたことが挙げられる。ただしバッサ自身がジョットに弟子入りしたわけではなく、14世紀イタリアを旅した際に画家のロレンツェッティ兄弟から影響を受けたのではないかと考えられる。

サン・ミゲル礼拝堂にあるフレスコ壁画

ベルナト・マルトレル (Bernat Martorell) 1390-1452

ベルナト・マルトレル (Bernat Martorell)は、カタルーニャの国際ゴシック様式の第2段階に属する画家。色よりも仕上げの質が優先されるフランドル様式に近い画風で知られる。

1427年以前はどのような人生を過ごしていたか不明。一説にはサン・セローニの肉屋の息子で、タラゴナの学校で訓練を受けたと言われる。

バルセロナに出てきた後は、祭壇画を中心に、写本や刺繍、彫刻など、幅広く手掛けた。

しっかりした描画と細心の注意を払った筆致による、優れた技術的正確さが特徴。また、ファンタジーと逸話や日常的な要素への興味も際立っている。マルトレルの作品には、奇妙な帽子、毛皮の服、豪華な錦織物を着た表情豊かなキャラクターが多い。また色彩の使い方にも優れており、聖ジョージの祭壇画はその代表作である。

20世紀初頭より国際的にも名を知られるようになり、ゴシック様式の重要人物に位置付けられるようになった。これはイベリア半島でイスラム教による支配とキリスト教徒によるレコンキスタ(イベリア半島のキリスト教徒によるイスラム教徒からの国土奪回運動)の影響が大きいと考えられる。

 

『ドラゴンを倒す聖ゲオルギオス』 1430年-1435年 (シカゴ美術館)

ペドロ・ベルゲーテ(Pedro Berruguete1450? – 1504?

ペドロ・ベルゲーテと考えられる自画像(ラザロ・ガルディアーノ美術館 マドリード)

 

ペドロ・ベルゲーテ(Pedro Berruguete)は、ルネサンス期に活躍したスペインの画家。画家アロンソ・ベルゲーテの父親。

カスティーリャ王国、現在のバレンシア地方の出身。1480年ごろにイタリアへ渡ると、ウルビーノ公国の君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに仕えながら、当時最新のイタリア美術を学んだと考えられる。1482年にスペインへ戻り、トレドやアビラなどの国で美術制作を行なったが、そのほぼすべてが宗教画であった。1503-04年ごろにアビラ大聖堂の祭壇画を制作している過程で亡くなったと考えられる。死亡時はマドリードにいたと言われるが、定かではない。

ベルゲーテの1番の功績は、レコンキスタ(イベリア半島のキリスト教徒によるイスラム教徒からの国土奪回運動)によって文化的に停滞していたスペインに、当時最先端だったイタリア(ゴシック、初期ルネサンス)の美術表現および技法を持ち帰り、広めたことである。彼よりも前にミケル・シトーら外国人画家も技術の普及に貢献したものの、スペイン人自身の手によって行われたことは非常に意義深い。

異端判決宣告式の聖ドミニコ(1495年)プラド美術館、マドリード
ヴェローナの聖ペトロ(1493年)プラド美術館、マドリード

アロンソ・ベルゲーテ(Alonso Berruguete) 1490-1561

『ベルゲーテ像』ホセ・アルコベーロ作(1892年)スペイン国立考古学博物館、マドリード

アロンソ・ゴンサーレス・ベルゲーテ(Alonso González Berruguete)は、スペインの画家・彫刻家・建築家。

パレーデス・デ・ナバ(現在のバレンシア地方)で、画家ペドロ・ベルゲーテの息子として生まれ、父親の手ほどきで絵画を学んだ。父が死去した1504年にイタリアへ渡り、ローマやフィレンツェで絵画の勉強と制作を続けた。同時期に巨匠ミケランジェロの下で彫刻の技術も習得。1517年に帰国し、翌1518年からカルロス1世の宮廷画家・彫刻家に任命された。しかしカルロス1世は遠征で長く宮廷から不在になることが多く、ベルゲーテは絵画の依頼を思うように受けられず、次第に彫刻に注力するようになった。

アロンソ・ベルゲーテは父親と同じくイタリアで学び、最新の美術技法を持ち帰った。とくに当時流行していたマニエリズムを伝えたのは、ベルゲーテが最初と考えられる。

しかしそれ以上にベルゲーテの功績として大きかったのは、イタリア彫刻の導入である。彼が学んだミケランジェロは間違いなく当時最高の彫刻家であり、その表現・技法を学び伝えたことはスペイン美術史において特筆すべきことである。ベルゲーテ自身もその技術を独自に高め、キリスト教の法悦や苦悩などの表現に優れた傑作を数多く手がけた。現在では「スペイン・ルネサンスにおいてもっとも重要な彫刻家」に数えられる。

『賢者の礼拝』(国立彫刻美術館、バリャドリード)

エル・グレコ (El Greco) 1541-1614

エル・グレコの自画像(1595-1600年)メトロポリタン美術館、ニューヨーク

 

エル・グレコ (El Greco)、本名ドミニコス・テオトコプロス(Dominikos Theotokopoulos)は、ギリシャ出身の画家。スペインで活躍した。風変わりなグレコの名はイタリア語の「ギリシャ人」、エルはスペイン語の男性定冠詞である。

出身はギリシャ・クレタ島。地元でイコン画家として活動していたが、イタリア・ヴェネツィアに渡り、ルネサンス・ヴェネツィア派の画家たちと交流しながら油彩画を学ぶ。1570年ごろに枢機卿のアレッサンドロ・ファルネーゼから職を得ていたようだが、1572年には解雇され、イタリア各地を放浪した後、スペインへと渡る。

1576年よりトレドを拠点として活動を再開。当時の国王フェリペ2世から発注を受けて『聖マウリティウスの殉教』を完成させるが、出来栄えに難色を示した王宮側から受け入れを拒否される。しかしその後は地元トレドの聖職者を中心に多くの注文を受け、人気画家として活躍した。

当時の美術の流行を受けて“マニエリスムの画家”とカテゴライズされるエル・グレコだが、これは大きな間違いである。マニエリスムはミケランジェロを規範とするルネサンスの美的様式の再解釈が進んだ末に生じた誇張表現を指す。一方のグレコはクレタ島に残っていた古いビザンティン様式とイコン画の美的観念、さらにはヴェネツィア派の油彩画法を独自に解釈し再構築したものである。こうしたモチーフの背景とのつながりとは一線を画す作風は後の表現主義にも通じ、後のセザンヌやピカソらに影響をもたらした。

オルガス伯の埋葬(1586-1588)サント・トメ教会、トレド

 

聖マウリティウスの殉教(1580-1582)エル・エスコリアル修道院, マドリード

フアン・バン・デル・アメン(Juan van der Hamen y (Gómez de) León1596-1631

フアン・バン・デル・アメン(Juan van der Hamen y (Gómez de) León)は、スペイン17世紀の画家。静物画を得意とした。

1596年にマドリードで洗礼を受ける。父親はフランドル人の宮廷役人兼軍人、母親はトレドの名家の娘だった。父親の仕事を継承する形でスペインハプスブルク王家に宮仕するようになり、次第に宮廷画家も務めるようになった。手掛けた題材も幅広く、上記の静物画以外にも宗教画や肖像画など多岐にわたって優れた作品を多数描いている。とにかく器用なのだ。

フェリペ3世、4世に仕えた他、その他の王侯貴族からもパトロンとして目をかけられたが、わずか35歳で亡くなった。

静物画の発展は中世スペインの絵画の特色の一つとなっているが、バン・デル・アメンはその立役者の1人である。一般にボデゴンと呼ばれ、優れた質感表現と画面全体を埋め尽くすようなモチーフの配置、陰影豊かな演出は、バン・デル・アメンの時代に完成された。フランドル絵画の影響が色濃く現れているものの、題材にはスペイン風俗への意識が溢れている。彼の死後、ボデゴンは最盛期を迎えることとなった。

花、アーティチョーク、ガラス製品のある静物(1627)プラド美術館、マドリード

ディエゴ・ベラスケス (Diego Velázquez) 1599-1660

自画像(1650)バレンシア美術館

ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)は、17世紀スペイン黄金時代を代表する画家。

スペイン・セビリアの出身。11歳より地元の画家フランシスコ・パチェーコの工房で学ぶ。

1623年のマドリード旅行で当時の国王フェリペ4世の肖像画を描いたことをきっかけに、宮廷画家に引き立てられる。以降、生涯にわたってフェリペ4世に重用され、王宮の作品を描き続けた。

“印象派の父”と称賛されたエドゥアール・マネをして、「ベラスケスは最高の画家」とまで言わしめている。その特徴は、精緻な写実描写と構図巧みな空間表現、それらの優れた技術をもって神話や寓話の引用、宮廷画家ながら王宮に忖度しない社会批判、分け隔てなく平等にモデルを描く人間愛にある。絵画のみならず教養や社交性など1人の人間として優れていたため、役人としても多くの宮廷職務を任じられた。このように画業以外でも多忙を極めたため、一説には過労死したと言われる。

『セビーリャの水売り』(1620年)アプスリーハウス、ロンドン
『ラス・メニーナス』(1656)プラド美術館、マドリード

フランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán) 1598-1664

スルバランのレリーフ プラド美術館、マドリード

フランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán)は、スペイン黄金時代を代表する画家。スペイン南西部、エストレマドゥーラ地方のフエンテ・デ・カントスに生まれ、セビリアの画家ペトロ・ディアス・ビジャヌエバに師事した。

主にセビリアで活動し、とくにカトリック関連の仕事を多く手がけたことから、作品の多くを宗教画が占める。しかし1640年代ごろから次第に人気を失い、終わった画家とみなされるようになってしまう。その背景にはスルバランの拠点となったセビリアの凋落があり、独占貿易権の喪失による経済悪化、さらにはペストの流行で人口が激減した。

1658年にベラスケスの伝手でマドリードに移ったが、かつての勢いを取り戻すには至らず、そのままセビリアに戻ることなく1664年に亡くなった。

主に宗教画を手がけたスルバランは、作風も毅然として厳格だった。またカラヴァッジョを彷彿とさせるような明暗の対比も得意としていた。一方で画面構成は単調で、人物表現も躍動感に欠ける。スペイン黄金時代を担った功績は大きいが、現代ではベラスケスの存在の影に隠れてしまった感は否めない。

『神の仔羊』(1635-1640年) プラド美術館、マドリード

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ (Bartolomé Esteban Murillo) 1617-1682

自画像(1670-1673)ナショナルギャラリー、ロンドン

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ (Bartolomé Esteban Murillo)は、17世紀に活躍したスペインの画家。黄金時代を代表する画家の1人である。

イベリア半島南部のセビーリャ出身。父は民間医師で兄弟は14人いたと言われるが、出自については不明な点が多い。

1633年ごろに画家としてスタートし、修行時代は叔父の画家ファン・デル・カスティーリョの工房に所属していた。1645年に地元フランシスコ修道院の装飾事業を手がけたが、これがムリーリョにとって最初の大仕事だと言われる。

初期は画風にディエゴ・ベラスケスの影響が色濃く表れていたが。次第にテネブリスモ(光と影の強い陰影を押し出す画風)に傾倒し、成熟すると共にスティモ・バポローソという光がかった薄もやの漂うスタイルを組み合わせ、聖母や子どもを対象にした「無原罪のお宿り」のテーマに特化していった。これはムリーリョが実子5人をペストで亡くし、生き延びた娘の1人も難聴を患うなど、我が子の不幸に多く見舞われたことに起因すると考えられる。

ベネラブレスの無原罪の御宿り』(1660-1665年)プラド美術館、マドリード

ルイス・メレンデス(Luis Egidio Meléndez) 1716-1780

自画像(1747年)ルーヴル美術館、パリ

ルイス・メレンデス(Luis Egidio Meléndez)は、18世紀スペインの画家。生前は不遇のうちに生涯を終えたが、現在では18世紀最高の静物画家とされる。

生まれはイタリア・ナポリだが、父で細密画家のフランシスコ・メレンデスはスペイン人で、1歳ごろにマドリードに里帰りした。その後、宮廷の細密画家に就任した父の下で絵画を修行し、自身も宮廷画家を目指すようになる。父子のキャリアは順調で、1744年にフランシスコはサン・フェルナンドの美術アカデミーで絵画部門の名誉理事になり、ルイスは第1期生として入学を認められた。ところが在学中に父フランシスコがアカデミー学長と諍いを起こしたことが原因で、1748年に名誉理事を解任され、ルイスも退学を余儀なくされる。すでに突出した才能を発揮していたものの実績や後ろ盾がないことから依頼を得られず、やむなくナポリに移住(1748-1752)したり、父の仕事を手伝いながらキャリアを取り戻すチャンスを伺った。しかし生涯宮廷画家にはなれないまま1780年に死去。1772年にスペイン王へ宛てた手紙によれば、持ち物は鉛筆しかないという貧困ぶりだったという。

ルイスの人生は常に静物画と共にあった。スペインは他のヨーロッパ諸国と比べて静物画の技術が発達しており、ボデゴン様式と呼ばれる。父フランシスコも細密画で宮廷の装具などを描き、ルイスもそれに習って技術を磨いていた。また上記のアカデミーが静物画の教育を奨励していたこともあり、宗教画などと並行して学んだと考えられる。宮廷画家としてのキャリアが絶望的になったことも、静物画に集中するきっかけの一つだった。これは静物画が依頼なしでも描いて販売しやすいからであり、当時の売れない画家にとって重要な収入源だった。

ルイスの静物画の特徴は、対象が前面に迫るように構図を組んだことと、ライトアップで光沢や陰影を積極的に取り入れたことである。それまでの静物画は精緻で穏やかなものだったが、ルイスの作品は神々しくて迫力があり、静物画というジャンルを一つ上のステージへ押し上げたと言える。

『鮭、レモン、三つの器のある静物』(1772年)プラド美術館、マドリード

フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco de Goya) 1746-1828

『ゴヤの肖像』(1826年、ヴィセンテ・ロペス・イ・ポルターニャ画)
プラド美術館、マドリード

フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco de Goya)は、18-19世紀に活躍したスペインの画家。

サラゴサ近郊の町に生まれ、14歳から絵画修行を開始。若い頃は師弟関係に恵まれないなど不遇だったが1771年のローマ移住で一気に才能が開花。1786年に40歳でカルロス3世の宮廷画家に引き立てられ、幸せの絶頂期を迎えた。しかし1792年に病で聴覚を失うと次第に精神が不安定となっていく。

1800年代に入るとフランスの侵攻と市民の内乱によりスペイン国内で多くの犠牲者が出るようになり、ゴヤはこの様子を題材とした作品を多く手がける。一方で視覚障害などの影響で精神状態は悪化の一途を辿り、暗い作風の絵も多くなっていく。1824年、混迷するスペイン王家を嫌ってフランスに亡命すると、その4年後に82歳で死去した。

ゴヤはしばしば「“最後の古典巨匠”にして“最初のモダニスト”」と評されるが、これは彼の画風が82年という長い人生の中で様々に変化したことを指し示している。若い頃はロココ調や新古典主義で宮廷絵画を担い、内戦の時期にはロマン主義の先駆けとなった。さらに病んだ精神を表した作品は表現主義、象徴主義、シュルレアリスムなどの要素も内在しており、後進に大きな影響をもたらした。

マドリード、1808年5月3日』(1814年)プラド美術館、マドリード
『魔女の夜宴』(『黒い絵』14作より)(1820-1823)プラド美術館、マドリード

マリアノ・フォルトゥーニ(Mariano Fortuny y Marsal1838-1874

自画像(1863-1873)カタルーニャ美術館、バルセロナ

マリアノ・フォルトゥーニ(Mariano Fortuny y Marsal)ことマリアーノ・フォルトゥニー・イ・マルサルは、スペインの画家。

タラゴナ州レウスの出身。

家具職人だった祖父の影響で絵画に興味を持ち、地元の美術学校で学ぶ。すぐに頭角を表し、1857年に奨学金でイタリア・ローマ留学を果たす。現地では同じくスペイン人の若手画家たちと交流し、後のスペイン画家たちの基軸を作った。

1859年、バルセロナ州政府よりモロッコ遠征に従軍画家として派遣される。その間に異国の開放的な光の表現の着想を発見すると、その後にヨーロッパ各地を旅行し、ドラクロワらの開拓したオリエンタリズムの絵画を習得し、自身の創作を確立した。

1865年に描いた「マリア・クリスティーナ女王とイザベル2世の防衛砲台視察」はパリの上流階級で人気を博し、画家としてのステータスを一気に押し上げた。さらにこの頃に取引を始めたアドルフ・グーピルはフォルトゥーニの作品を広め、彼は不動の人気画家とした。しかし1874年、マラリアにより病死。36歳の若さだった。

フォルトゥーニは短い半生の中で国内外より広く支持される画家となり、スペイン画家の存在を高めた。同時代から後進への影響も大きく、紛れもなく巨匠と呼ぶに値する画家の1人である。

「マリア・クリスティーナ女王とイザベル2世の防衛砲台視察」(1865)プラド美術館、マドリード

ホセ・タピロ・イ・バロ(José Tapiro y Baro)  1836-1913

1864年、ローマでの写真

ホセ・タピロ・イ・バロ(José Tapiro y Baro)は、スペインの画家。

タラゴナ州レウスの出身。

彼の生涯と作品は、幼なじみであったマリアーノ・フォルトゥニと深く結びついている。二人はドミンゴ・ソベラノに師事し、バルセロナの美術学校で画家のクラウディオ・ロレンザーレ、アグスティン・リガルト、パブロ・ミラ・フォンタナルスに師事した。その後、1857年に二人はローマに行き、1860年には二人で初めてモロッコを訪れた。3年後、二人はローマに戻ったが、1871年にグラナダからモロッコに戻る。1867年、タピロは全国美術展に参加し、「愛とゲーム」で3等賞を受賞した。フォルチュニィの死後、北アフリカに定住し、1876年にはタンジェに劇場を購入し、常設のアトリエとした。1889年のパリ万国博覧会や1893年のシカゴ万国博覧会など、国際的な展覧会にも参加した。バルセロナを度々訪れ、サラ・パレスで展覧会を開いたが、マドリードに戻ったのは1907年のことで、その1年後にタンジェに戻った。

フォルトゥニと並ぶカタルーニャのオリエンタリズムを代表する画家であり、水彩画の名手でもあった。その緻密な描写とモデルの神秘的な表現は、今後国外でも人気を博す可能性を秘めている。

ベルベル人の花嫁(1883)カタルーニャ国立美術館、バルセロナ

ホアキン・ソローリャ・イ・バスティダ(Joaquín Sorolla) 1863-1923

ホアキン・ソローリャ

ホアキン・ソローリャ・イ・バスティダ(Joaquín Sorolla y Bastida)は、19-20世紀に活躍したスペインの画家。

バレンシア出身、2歳で両親をコレラで失うなど、不遇な幼少期を送る。当初は工芸学校で学んでいたものの同校の校長に絵画の才能を認められ、地元バレンシアの美術学校へと進んだ。

その後、兵役を経てマドリード、ローマへと移り住みながら研鑽を積む。天気はローマ時代のパリ訪問で、ソローリャは当時流行の印象派の影響を受け、画風も光を意識したスタイルに変わっていった。キャリアの大半でアートシーンの最先端に関わる存在ではなかったが、アメリカをはじめ海外でも個展を成功させている。

1889年、マドリードへ帰国。国内の美術展で受賞歴を重ねたり、著名人の肖像画を手がけるなど、スペインを代表する画家として名を馳せていった。

日本ではあまり知名度がないソローリャだが、スペイン国内では自国を代表する芸術家の1人として度々名前を挙げられる。これは彼が祖国の健康的で祝祭的なイメージを描き、自国民に明るくポジティブなイメージを提供し続けたことへの敬意である。

『浜辺の散歩』(1909)ソローリャ美術館、マドリード

ルイス・リカルド・ファレロ(Luis Ricardo Falero1851-1896

自画像(1880)

ルイス・リカルド・ファレロ(Luis Ricardo Falero)は、19世紀に活躍したスペインの画家。

グラナダの上流階級の一家の出身。

多彩な人で、美術の他に化学・工学も学び、電気工学の分野では発明家であり技術者でもあった。両親は海軍学校に入学させ、スペイン海軍で出世してほしいと願っていたが、画家としての夢を追いかけ、パリに渡った。

ファレロが絵画で追い求めたのは清々しいほどのエロティシズムであり、モチーフのほとんどが女性のヌードだった。彼の描くファンタジー世界のエロスは人気を博したが、卑猥であるとたびたび批判されたため、ロンドンに活躍の場を移した。ロンドンでも引き続き成功を収めたものの、ロンドンの病院で外科的介入の失敗(手術ミス?)により45歳で亡くなった。

生前のファレロは確かに人気画家だった。しかし現在、ファレロの作品を目にしたり画集を入手する機会は極めて乏しい。ネット上では彼の表現したエロスがあまりにも過激だったからとする説が多いものの、それは大いに疑問符がつく。同時代に活躍したサロンの重鎮アレクサンドル・カバネルの作品『ビーナスの誕生』を見ればわかるが、ファレロだけが突出してエロスに突っ走っていたわけではない。 

海外の美術専門サイト『オベリスク』では、ファレロがパリから追い出され、美術史に埋もれたのは、彼の戦略ミスだとしている。サロンの画家――つまり美術アカデミーの画家たちは、ヌードを描く時に神話をモチーフにすることで『人間のヌードは描かない(神のヌードならOK)』という体裁を守っていた。しかしファレロはそれに従わず、自分の好きな星座や空想の世界に思うままのヌードを描いていた。また彼は自らを『ラブランツァーノ公爵』という架空の爵位を語り、自らのペンネームとしてあてていたが、これも顰蹙を買った。その結果、ファレロはアウトサイダーアートの画家として、葬り去られようとしたのである。

 

『ファウストの夢』(1880)

サンティアゴ・ルシニョール(Santiago Rusiñol i Prats) 1861-1931

サンティアゴ・ルシニョール

サンティアゴ・ルシニョール(Santiago Rusiñol i Prats)は、19-20世紀に活躍したスペインの画家、劇作家。

バルセロナ出身。実家は裕福な繊維工業の実業家だった。

当初は家業を継ぐべく働いていたものの、1886年に結婚間もない妻子を置いてトマス・モラガス(オリエンタリズムの画家)に絵を学び、地元で画家活動を開始する。1889年にパリへ移住し、若手画家が集まるモンマルトルへ活動拠点を移す。ここで当時流行していた印象派に影響を受け、自らも傾倒していった。

その後スペインに帰国すると、四匹の猫と呼ばれるカフェでパブロ・ピカソら若手芸術家と交流しながら、モデルニスモ(カタルーニャ文芸復興運動)の推進に貢献した。

ルシニョールは、モデルニスモのリーダーの1人として、スペイン美術史に欠かせない存在となっている。キャリア序盤から印象派の影響を色濃く表した作品を手掛けていたが、次第にカタルーニャへの愛着やボヘミアンな気風も加わり、独自の世界観を構築して行った。

 

エレジーの庭。ソン・モラゲス(1903年頃)マヨルカ島にあるオーストリア大公ルートヴィヒ・サルバトールのソン・モラゲス邸の庭とプール。

ジョアン・ブリュル(Joan Brull1863-1912

自画像

ジョアン・ブリュル・イ・ヴィニョレス(Joan Brull i Vinyoles)は、19-20世紀に活躍したスペインの画家。

バルセロナ出身で、市内のジョッチャ美術学校(Escola de la Llotja)で学んだ後、2年間パリの美術学校アカデミー・コラロッシでラファエル・コランについて絵画の指導を受ける。バルセロナに戻った後は芸術家のサロン的存在となっていたバルセロナのカフェ「四匹の猫」やバルセロナ王立芸術サークル(Real Círculo Artístico de Barcelona)といった場所で知識人や芸術家と付き合い、ラモン・カザスやサンティアゴ・ルシニョールと友人になった。

初期の作品は写実的なスタイルであったが、後に神話の登場する女性などを描き、象徴的な雰囲気の作品を描いた。彼はまた彼の多くの肖像画も制作した。

スペインでは象徴主義的な画風の画家が少なく、中でもブリュルはアールデコのような明確な線よりも柔らかいタッチを好むなど、異質な存在感を放った。

『夢』(1905)カタルーニャ国立美術館、バルセロナ

ラモン・カザス(カタルーニャ語:Ramon Casas1866-1932

自画像

ラモン・カザス・イ・カルボ (カタルーニャ語:Ramon Casas i Carbó)は、19-20世紀に活躍したスペインの画家。スペインの芸術運動モデルニスモを世界に広める上で大きな貢献を果たした。

バルセロナ出身。裕福な一家に生まれ、1877年より肖像画家のジュアン・ビサンのスタジオで美術を学ぶ。以降、パリとバルセロナを行き来しながら創作活動に取り組む。そのうち大半はパリで過ごしていたようで、同郷の画家サンティアゴ・ルシニョールら芸術家仲間と行動を共にしていた。この交流はモデルニスモへと発展し、スペインの芸術に大きな潮流を巻き起こしていく。彼らは、カザスが出資したカフェ『四匹の猫』を拠点とし、後のピカソら多くの芸術家もここを目指して来るようになった。カザス自身も肖像画やイラストレーションなど幅広く制作を展開の幅を広げ、当時のスペインきっての巨匠へと大成した。

パリの滞在期間が長かったカザスの絵画技法には印象派の影響が伺えるが、これはパリで彼に絵を指導したカロリュス=デュランもまたエドゥアール・マネに影響を受けていたことに起因する。ただし他にも上流階級の日常をリアルに描き出したこと、反戦の意識、素早いタッチで対象の特徴を捉える技術など、マネとの共通項は多い。

一方でカタルーニャの伝統的な文化や風景、アイデンティティを積極的に用いた。そのためバルセロナなどカタルーニャ地方では欠かすことのできない画家として愛されている。

『バルセロナ、もしくはラ・カルガ』(1903)ガローチャ美術館、ウロット

ジョアキム・ミール(カタルーニャ語表記:Joaquim Mir、スペイン語表記:Joaquín Mir1873-1940

ジョアキム・ミール

ジョアキム・ミール・トリンセト(カタルーニャ語表記:Joaquim Mir i Trinxet、スペイン語表記:Joaquín Mir y Trinxet)は、19世紀スペインの画家。

バルセロナ出身。地元の美術学校を中退後、若手画家たちと交流しながらキャリアをスタート。

1899年末、モデルニスモのリーダーだったサンティアゴ・ルシニョールと共にマジョルカ島に渡り、独自の色彩表現に開眼。以降、ミールは自身の創作を風景画に絞っていく。1900年からマヨルカ島に滞在していたベルギーの象徴主義の画家ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンクとも知り合い影響を受けたともされる。

1904年ごろから精神を患い、1906年からレウスの精神病院で療養を受けた。当時の作品は彼の人生の中でも象徴的な作品となっている。その後もカタルーニャ地方を中心に移り進みながら創作活動を展開した。晩年はスペイン第二共和政の率いる第二共和国と共謀したと告発され、フランコ政権によって投獄の身となるなど、不遇だった。 

ミールのスタイルや画風を表す言葉として、ポスト印象派や象徴主義、モデルニスモなどが挙げられるが、そのいずれにも収まりきるものではない。彼がマジョルカ島で目覚めた色彩美の世界観は独自のものである。1928 年に自身の個人的な芸術マニフェストを次のように要約している。
「私が望むのは、私の作品が心を明るくし、目と魂を光で満たすことだけです」。

 

『テラスビレッジ』(1909)カタルーニャ国立美術館、バルセロナ

フリオ・ゴンサレス(カスティーリャ語:Julio Luis Jesús González Pellicer1876-1642

自画像(1920)バレンシア現代美術館

フリオ・ルイス・ヘスース・ゴンサレス(カスティーリャ語:Julio Luis Jesús González Pellicer)は、スペインの彫刻家。鉄彫刻の作品で知られる。

スペイン・バルセロナの鍛冶職人の家に生まれた。

父親の元で金属加工の技術を身につける一方、兄フアンと共に夜間の美術学校で学ぶ。1900年に一家でパリに移住し、金属加工業で生計を立てる一方、モンマルトルで芸術家たちと交流を結んだ。当初は画家を目指していたものの、次第に金属彫刻へと傾倒。1920年代に彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの工房へ出入りしながら、鉄彫刻の分野で自分の表現を確立した。パブロ・ピカソとも親交を持ち、彫刻の技法を教えながら共同制作も行なっている。この出会いはゴンサレスにとっても作風を確立するためのきっかけとなった。

ゴンサレスが開拓した鉄彫刻は、工業技術の発展した20世紀を象徴する彫刻表現として受け入れられ、世界各国の彫刻家たちに大きな影響をもたらした。そのため「20世紀における鉄彫刻の父」とも称される。

『(Barcelona) Cactus Man I 』カタルーニャ国立美術館、バルセロナ

マリア・ブランシャール(María Blanchard1881-1932

マリア・ブランシャール

マリア・ブランシャール(María Blanchard、フルネーム:María Gutiérrez Cueto y Blanchard)は、20世紀スペインの現代画家。数少ない女性キュビズム画家の1人である。

スペイン・サンタンデール出身。妊娠時の母親のケガにより、生まれつき脊椎に障がいを抱える。1903年よりマドリードに移り、サン・フェルナンド美術アカデミーで本格的に絵画を学ぶ。1909年より留学したパリでフアン・グリスら若手画家と交流を結び、キュビズムに開眼。1920年代には画家として評価を高めたものの、戦争でパトロンを失うなど次第に困窮していく。盟友ファン・グリスに先立たれたことで精神的にも苦痛を感じるようになり、社会的にも孤立して行った。1932年、結核と思われる病気で孤独のまま死去。死後、病気と闘いながら創作に励んだ彼女の功績は、スペイン人女性画家の先駆者の1人として再評価されている。

ブランシャールは、独自に分析的キュビスムから総合的キュビスムへの流れを開拓するなど、キュビズムという美術運動を深く理解する領域に達した画家の1人である。

しかし1920年代から身体性と感情の表現を重要なテーマとするようになっていった。彼女は自己表現や内面的な世界を探求し、人間の心理や感情を描写することに力を入れている。こうしたプライヴェートな個人のあり方を表すスタイルは、後のフリーダ・カーロらのような女性芸術家の先駆けでもあったと言える。

ギターを持つ女 (1917) ソフィア王妃芸術センター、マドリード
『ブルターニュの女性』(1930)ソフィア王妃芸術センター、マドリード

 

パブロ・ピカソ (Pablo Picasso) 1881-1973

パブロ・ピカソ

パブロ・ピカソ (Pablo Picasso)は、20世紀スペインの芸術家。

アンダルシア地方のマラガで、画家だったホセ・ルイス・イ・ブラスコの長男として誕生。幼少期から突出した画才を発揮すると、1900年ごろからパリに進出する。“洗濯船”と呼ばれる集合住宅兼アトリエで若い芸術家たちと交流しながら次第に名声を高めると、キュビズムの中心人物としてアートシーンの主役に躍り出る。その後、新古典主義やシュルレアリスムなど様々な様式を変遷していった。

代表作に『アビニョンの娘たち』『ゲルニカ』など。 

ちなみにキュビスムは『アビニョンの娘たち』と共に始まったように思われがちだが、正確には盟友のジョルジュ・ブラックとの共同開発であり、キュビスムという名称もブラックの個展を取り上げた新聞の見出しに起因すると考えられる。

詳しくは以下を参照。

【今日の一枚】パブロ・ピカソ『アヴィニョンの娘たち』1/2

フアン・グリス (Juan Gris) 1887-1927

フアン・グリス

フアン・グリス (Juan Gris)は、19-20世紀に活躍した画家。

スペイン・マドリードの出身だが、活動の大部分はフランス・パリで展開された。“洗濯船”と呼ばれる若手芸術家たちの集合住宅兼アトリエにたびたび出入りし、ピカソやジョルジュ・ブラックと交流したことでキュビズムに目覚める。一方で“洗濯船”と対立構図を築いていた若手画家集団“ピュトー・グループ”にも参加したり、アンリ・マティスをはじめとするキュビスト以外の画家たちとも親しくなるなど、交流の幅が極めて広かった。

しかし1925年ごろより尿毒症と心臓の問題を抱え、1927年に腎不全で死去。まだ40歳の若さだった。

グリス最大の功績は、『分析的キュビズム』と呼ばれるピカソやブラックのスタイルから『総合的キュビズム』と呼ばれるピュトー・グループやアンデパンダン展で活躍する後の画家たちとの橋渡しをしたことである。そのため作品に分析型のモノクロームで論理的な表現に総合派のカラフルで黄金分割を重視するスタイルが調和し、グリスだけの作風が完成した。

またグリスはピカソやブラックらに並ぶ理論派で、その理論に忠実だったことから、ピカソとブラックに続く存在として“第3のキュビスト”と呼ばれる。

『パブロ・ピカソの肖像画』(1912), シカゴ美術館

ジョアン・ミロ (Joan Miró) 1893–1983

ジョアン・ミロ (Joan Miró)は、20世紀スペインの画家・彫刻家・陶芸作家。

バルセロナ出身。18歳で腸チフスを患って近郊のモンロッチ村で療養生活を送り、その間に絵画の道を本格的に志す。27歳でパリへ出てダダとシュールレアリスムの芸術運動に参加。しかし、シュールレアリスム・グループとは一定の距離を保ち、半覚醒下で絵を描くオートマティズム(自動記述)から自分のスタイルを確立していった。

1956年にはパルマ・デ・マヨルカに巨大なアトリエを構え、次第に作品規模も拡大していく。1969年の大阪万博にも作品制作のため来日している。

ミロの特徴は飽くなき探究心と絶妙な距離感の取り方である。音楽や文学など常に新しい分野の人間と交流し、陶器やモニュメントなど多彩なジャンルに挑戦し続けた。その一方で特定のグループとあまり深い関係になることを好まず、創作では常に一匹狼のようでもあった。

耕された野原(1923-1924)ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ニューヨーク

サルバドール・ダリ (Salvador Dalí) 1904-1989

サルバドール・ダリ

サルバドール・ダリSalvador Dalí)は、20世紀スペインの画家、彫刻家。

カタルーニャ地方のフィゲーラスで裕福な公証人の家に生まれ、少年時代から絵に興味を持つ。マドリードのサン・フェルナンド美術アカデミーで学んだ後、パリでシュルレアリスムの芸術家たちと交流し、自身の作風を確立していった。

ダリは自らの様式を『偏執狂的批判法』(Paranoiac Critic)と定義し、写実的描法を用いながら多重イメージなどを駆使して非現実的な風景画を描き続けた。これは政治的思想の相違によりシュルレアリスムから追放された(1934年)後も彼の芸術の根幹となる。

また妻のガラに倒錯的な愛情を注いでおり、しばしば彼女をミューズに見立てた作品を制作している。ガラはダリのマネジメントも一手に引き受けており、公私共に彼女なしでは成立しなくなっていた。ちなみにガラはたびたび不倫していたが、服従状態のダリはそれを許し、少しでも彼女の気を引こうと涙ぐましい努力を重ねたという。

そんなわけで1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、ジローナのプボル城で引きこもり生活を送りながら病没している。

『ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』(1936年)フィラデルフィア美術館

 

レメディオス・バロ(Remedios Varo Uranga) 1908-1963

レメディオス・バロ

レメディオス・バロ・ウランガ(Remedios Varo Uranga)は、スペイン生まれのシュルレアリスト画家。メキシコに渡ってから活動が広がった。

ジローナ州郊外にある小さな町アングレの出身。スペイン戦争の際にパリで避難生活を過ごしたが、その際にシュルレアリスム運動から大きな影響を受けた。その後いったんスペインに戻るものの、彼女は政治的な不安定さから再度スペインを離れ、第二次世界大戦中にフランスを経てメキシコへ移住し、1963年に心臓発作で亡くなるまで首都メキシコシティで暮らした。

バロは、夢、魔法、科学などのテーマを探求し、独自の宇宙を作り上げることに情熱を注いだ。作品を見ると緻密で精緻な描写と想像力豊かな景色が共存し、不思議な世界観が観る者を魅了する。

彼女の功績は、シュルレアリスムの伝統を継承しつつ、夢と現実の境界を曖昧にし、人間の心の奥深くへ響くような独自の作風を確立したことである。また、科学的な要素や機械的な構造が、彼女の作品に独自の神秘性と魅力を与えたと言える。

『地球のマントルを刺繍する』(1961年)個人蔵

ホルヘ・オテイサ(Jorge Oteiza) 1908-2003

作品製作中のホルヘ・オテイサ

ホルヘ・オテイサ(Jorge Oteiza)は、スペインの20世紀を代表する彫刻家。絵画、詩の分野でも活躍した。

1908年、ナバーラ地方のオリャティ出身。

当初は画家として活動したが、次第に彫刻に専念するようになる。抽象的で前衛的――幾何学的で力強いデザインの作品が多いが、これは物質と空間の関係や抽象的な形態の探求に焦点を当てる過程で編み出された。

彼の作品の中で最も有名なのは、「空間の詩学」として知られるシリーズで、本シリーズでオテイサは抽象的な形態を通じて空間の概念を探求した。

またオテイサはバスク文化や言語に深い関心を持っていた。作品にしばしばバスクの精神や風土が反映され、個々の作品には独自の哲学的な洞察が込められている。

また美術教育にも熱心で、2003年にバスク地方のサン・セバスティアンで亡くなるまでに世界中から多くのリスペクトを集めた。

『14人の使徒』(1950年)アランツァス聖堂、バスク自治州オニャティ

アントニ・タピエス・イ・プイグ(Antoni Tàpies i Puig1923-2012

アントニ・タピエス

アントニ・タピエス・イ・プイグ(Antoni Tàpies i Puig)は、スペインの現代芸術家。

スペイン・バルセロナ出身。

1950年に初めての個展をバルセロナで開催、以後パリに居を移す。タピエスは、初期の頃はパウル・クレーなどに影響を受けたシュルレアリスムの画家としてキャリアを始めたが、その後すぐ抽象表現主義に進み、美術用画材ではないものを利用した芸術である「アルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)」スタイルで創作活動を行う。

1953年にはミックス・メディアでの創作を開始、後にこれが彼の芸術への最大の貢献と評価される。このスタイルの一つの例は、粘土と大理石粉を絵具に混ぜ、廃紙、糸、絨毯などを使用している(灰色と緑の絵(Grey and Green Painting1957年)、ロンドン・テート・ギャラリー収蔵)。

1970年代に入るとポップアートの影響を受け、家具の破片などのもっと大きな物体を絵画にくわえるようになる。タピエスのアイデアは世界中の芸術、特に絵画、彫刻、版画の分野などに大きな影響を及ぼし、作品も世界中の様々な美術館に収蔵されている。

1990年には、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した。

『RINZEN』(1933年)バルセロナ現代美術館

ドメニク・フィタ (Domènec Fita i Molat) 1927-2020

ドメニク・フィタ

ドメニク・フィタ・イ・モラ (Domènec Fita i Molat)は、スペイン・カタルーニャの彫刻家・陶芸家。

ジローナ出身。複数の美術学校で古典的な美術について学んだ後、彫刻制作に取り組む。キャリア初期は基本的に宗教をテーマとしていた。しかし描画(肖像画、ヌード、獣寓話のテーマ)、陶器、セメント、ステンドグラス、ポリウレタン、石、アラバスター、鉄、鋼、木、その他さまざまな素材の使用30年にわたる集中的な研究の過程で、使用する素材は多面的で認定が難しいものへと変わり、現在進行形の主義を避けて急進的な抽象化を遂げていった。1969年に故郷のジローナへ戻ると、そこが彼の制作の拠点となり、2010年に亡くなるまで住み続けた。

近年ではバルセロナのサグラダ・ファミリア(聖家族教会)での制作活動により、その名を美術関係者以外にも広く知られた。彼はアカデミックな要素を徐々に取り除いていったにも関わらず、晩年をキリスト教徒と縁の深い場所での活動に費やしたことは極めて興味深い。

アンドラの国立講堂広場の柱。オルディーノ(アンドラ)。彫刻とステンドグラスの作品、2000年Columna_de_la_Plaça_de_l’Auditori_Nacional_d’Andorra

アントニオ・ロペス・ガルシア (Antonio López García) 1936-

アントニオ・ロペス・ガルシア

アントニオ・ロペス・ガルシア(Antonio López García)は、20-21世紀のスペインの画家・彫刻家。

ドン・キホーテで有名なラ・マンチャ地方にあるトメジョーソの出身。

叔父のアントニオ・ロペス・トーレスから絵画の手解きを受けた後、マドリードの美術アカデミーで学び、学内で後に妻となるマリア・モレーノらと活動。若い頃から多くの受賞を重ね、すぐに評価を高めていった。近年では1993年にマドリード、2008年にはボストンなど、世界各地で個展を開催し、高い評価を得ている。1992年には彼の制作過程を追った映画『マルメロの陽光』も制作された。

アントニオ・ロペス・ガルシアの作品の根幹にあるのは、緻密な技術による丁寧な具象表現である。普通なもの、ありきたりな風景の中に美を見出し、普通な日常の中に存在する事物を再認識させようとする。ガルシアはディエゴ・ベラスケスに多大な影響を受けたと言う。自身も偉大な祖国の巨匠に倣い、写実的な描き方の中でいかに高度なアートを完成させるかを実践しようとしていると考えられる。

『サンタ・リタ通り』(1961年)

クリスティーナ・イグレシアス (Cristina Iglesias) 1956-

クリスティーナ・イグレシアス

クリスティーナ・イグレシアス (Cristina Iglesias)は、20-21世紀のスペインの芸術家。主にインスタレーションや彫刻を得意とする。

スペイン北部のサン・セバスティアン地方出身。いわゆるバスク地方と呼ばれる国内の自治省であり、気質的にも文化的にも独自のスタイルを持つが、イグレシアスの芸術性もバスクの気質がアクセントをもたらしている。1980年代より作品発表を展開し、スペイン国際芸術造形賞や、ベルリン芸術賞など多くの国際芸術賞を受賞。現在はマドリードで創作活動を展開している。

イグレシアスの創作は、鋼、水、ガラス、青銅、竹、わらなど、その材料は実に多彩である。そして、自然・社会問題・人権・自らの感情に対する感覚と視覚的影響に焦点を当てている。

『深い噴水』(2009年)Deep_Fountain_by_Cristina_Iglesia

まとめ

いかがだったでしょうか?

スペインは、フランスやイタリアなど美術大国と呼ばれる国々と地続きであり、絶えず影響を受けながら高いレベルの芸術文化を育んできました。その一方で彼らには極めて独創的な一面があり、時に他の欧州諸国を凌駕するほどに素晴らしい輝きを放ってきた歴史があります。

ここまでに紹介した30人はイベリア半島における一握りの芸術家に過ぎませんが、彼らのプロフィールを見れば以下のようなスペイン芸術の特徴を見出すことができます。

・イスラム文化

元々アフリカ大陸に近いイベリア大陸ですが、8世紀前半よりイスラム王朝が侵攻し、レコンキスタが完了する15世紀後半までのおよそ700年間、イスラム教徒による支配を受けてきました。そのためコルドバやグラナダなどの南方の地域を中心にイスラムの文化と美的感覚が色濃く残りました。

・スペイン黄金時代美術

レコンキスタの完了後、イベリア半島はキリスト教徒によるイスパニア王国が築かれ、キリスト教的な美術文化を補うべく外国から画家や職人たちを招聘します。その結果、北方フランドルやイタリア・フィレンツェなどヨーロッパ各地の最先端の美術表現・技法が集結し、新たな化学反応を起こしました。同時に国内からもベラスケスを筆頭に突出した才能が次々と誕生し、スペイン美術はまさに世界の中心へと躍進するのです。この16-17世紀の飛躍的な発展はスペイン黄金時代美術と呼ばれ、以降も大きな影響をもたらしました。

・多様な民族性

スペインにはイスラム教以外にも多くの民族が共存しており、その代表がバルセロナを中心とするカタルーニャ自治州と、北部フランス領との国境にまたがるバスク地方です。この二つの地域からは独自の文化に育まれた芸術家たちが多数輩出されており、中でもアントニ・ガウディやジョアン・ミロ、サルバドール・ダリ、ホルヘ・オテイサ、クリスティーナ・イグレシアスなど。彼らの生み出した表現はスペインの枠を超えて世界の芸術に大きな影響をもたらしました。

 このように様々な特徴を持つスペインの芸術家は、世界に広がったアートシーンにおいても特別な存在として輝きを放ってきました。彼らの名前と作品を通してスペインの持つ豊かな個性を感じていただければと思います。

知っておきたいフランスを代表する33人の芸術家

知っておきたいイタリアを代表する30人の芸術家

知っておきたいドイツを代表する32人の芸術家

知っておきたいアメリカを代表する39人の芸術家

知っておきたいイギリスを代表する31人の芸術家